その学園、危機的状況
一方時間は少々遡り、忍術学園の正門前。
強くなった雨の中利吉は立ち尽くしていた。
「……なんだ、この空気は…」
小さく呟き、通用門を押して足を踏み入れる。途端に鼻をついた臭いに顔を顰め、ズキズキと痛み出した頭を押さえる。
「澄姫ちゃんの言っていた“頭痛い”って、これか…?」
原因不明の頭痛を紛らわせるため呟けば、ふいに飛び掛ってきた気配。
驚いてその場を飛び退けば、そこには灰色の装束。
「あっ、利吉さんじゃないですか〜。入門表にサインしてくださいね」
「あ、ああ…」
いつも学園を訪れる時となんら変わらない台詞と共に突き出された入門表に筆を走らせながらも、なんとなく違和感を感じて首を傾げる。
「…小松田くん、何か、変わったことでもあったかい?」
「へ?変わったことですか?特には…」
傘を差しながらきょとんとした顔で答えた事務員は普段と同じように見えるが、利吉はどうしても何かが違うと思えて仕方がない。
しかしこのお間抜けな事務員に澄姫ちゃんに一体何があったんだと問い掛けたところで明確な答えが返ってくるとは思えないし、学園の教員に伝えられている話があるとしても、きっと彼は聞かされてはいないだろう。
失礼ながらもそう結論付けた利吉は早々に正門から歩き出し、父がいるであろう職員室に向かい歩き出した。
途中、雨だからかもしれないが、普段聞こえてくる元気な声が全く聞こえないことに薄ら寒いものを感じ、自然と早足になる。
そうこうしている間に職員室に辿り着いた利吉は軽いノックをして扉を開けた。
「父上、お久しぶりで、す…」
そしてもう定番化した挨拶を口にしている途中で、全身から汗が噴き出した。
「おお、利吉か。こんな雨の中どうした?仕事の帰りか?」
目の前の父が笑い、動くたび、酷くなる不快感と頭痛。肉親だからこそ確信を持てる違和感。
「……利吉?どうした?気分でも悪いのか?」
背を伝う嫌な汗と、平衡感覚を崩されたような目眩。それらを何とか誤魔化して、利吉はにこりと笑った。
「…いいえ、大丈夫です。少し疲れただけですから。仕事の帰りに近くを通ったもので、顔を見せていこうかと思いまして」
「そうか、あんまり無理するんじゃないぞ。母さんも心配してるだろ?」
「父上も、たまには母上に顔を見せてあげてくださいね」
「お前は顔を合わせるとすぐそれだもんなあ」
「帰らない父上が悪いんですよ。じゃあ、私はこれで」
「何だ、もう行くのか?」
「次の仕事がありますから」
ぐっしょりと汗ばんだ掌を擦り合わせた指で拭い、ぺこりと頭を下げて職員室を出た利吉はどくどくとうるさいこめかみを指でぐっと押さえ、そのまま屋根に上る。雨で濡れた瓦で足を滑らせないように気を付けながら屋根を飛び移り、井桁、青、萌黄、紫、群青が集まる校舎を覗き込みながら、最上階に位置する深緑が集まる一角を覗き込み、目を見開いた。
「…、あの女か…っ」
見覚えのある少年たちに混じり、深緑の装束を纏った見覚えのない少女。目を凝らして机に広げられている書物を覗き、書かれている名前にぐっと奥歯を噛み締める。
「平、月、妃…?」
見覚えのある苗字と、見知らぬ名前。完全に部外者なのに、聞き耳を立ててみれば彼女は隣に座る不運少年と仲良さげに何かを喋っている。
内容を何とか聞き取れないものかと屋根から身を乗り出した利吉はそこで、後頭部に走った痛みにぐっと眉を顰めた。
同時に絡み合う視線。
見つかったか、とその場から慌てて姿を消した利吉は学園を訪れたときより痛む頭を押さえながら正門を目指して走り、出門表に乱雑に筆を走らせると、鳴り響く警鐘に従い猛然と学園から離れた。
走って走って、暫く走り続け、澄姫を見つけた川の近くでようやく立ち止まると、大きく深呼吸を繰り返し、頭痛が治まった頃、学園のある方角を睨んで歯を剥いた。
「あの女、よくも…ッ!!」
その怒りは、利吉本人の怒り。
(父上、一体何があったのですか)
(利吉!!お前なんでこんな時に!!)
(…緊急事態だ。学園に侵入者が紛れ込んだ)
(侵入者!?もしかして、そいつが澄姫ちゃんを学園から追い出したのですか!?)
(詳しくはわからん。私ももう、意識が朦朧としているんだ)
(意識が!?一体何を…薬か幻術の類ですか!?)
(お前も早く学園を離れなさい)
(正気を保っている者はいないのですか!?)
(あの女、六年の)
(六年の女!?父上、父上!?)
先程交わした会話の裏側。山田家の矢羽音で告げられた“あの女”が何かしらの手を使って学園に紛れ込み、何かを企んでいる。
途切れ途切れだった伝蔵の矢羽音は、その後いくら利吉が呼びかけても応答することはなく、喋って、動いて、笑う普段と変わらない父の視線は虚空を彷徨い、利吉を一切見ることはなかった。
少女の惚れた腫れたの話だと思っていた利吉は、想定外な危機的状況に大急ぎでドクタケ城を目指し、雨が降りしきる野を全力で駆け抜けた。
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