その女、懐かれる

一方その頃風呂場にて。

ちゃぷりと浴槽のお湯を遊ばせた澄姫は、泣き腫らした所為で重たくなった瞼を押さえながらふうと重たい息を吐いた。
頭の中心がジンジンと痺れるような妙な感覚に、先程から溜息が止まらない。

「…だめね、脳が理解を拒否してるわ」

ぽつりと呟き、大きく息を吸い込む。
ずっと真っ白になっていた頭。風呂に入り温まったお陰でやっと動き出したかと思ったのに、学園で起きたことを考えれば考えるほど脳内が痺れ考えが纏らない。
忍びたるもの、どんな時でも冷静であれ。
いつか山本シナ先生がそう言っていた。自分ならそれができると当然のように思っていた。

「…たかが…」

好いた男に刃を向けられた、たったそれだけのことだと自分に言い聞かせてみても、澄姫はそれが理解できない。
掌でお湯を掬い、ばしゃりと顔にかけると、右頬と右目の横にぴりりと痛みが走り、やっと止まったと思っていた涙が再び溢れ出す。

「…長次、…どうして…っ」

控えめな嗚咽が、風呂場の湿気た空気に溶ける。


どれくらいそうしていただろうか。ようやく落ち着いた澄姫は突然ざばりと浴槽から立ち上がり、換気用の窓から顔を覗かせる。

「こらぁー!!あっちいけー!!仕事しなさーい!!」

そこから見えた光景は、可愛らしい赤いリボンを揺らしながら箒を振り回す女の子。大きな声で叫びながら、渋柿色の装束を追い掛け回している。

「ひぇぇ〜!!」

「でっ、出来心だったんだよ〜!!」

情けない声を上げながら走り去っていった渋柿色を肩を怒らせて睨み付ける少女はぱんぱんと手を払い、不届き千万ね、と唸り箒でがつりと地面を打った。
よくわからない状況にぱちくりと瞬きを繰り返しながら、澄姫は換気用の窓からあの…と控えめに声を掛けた。
それに気付いたらしい山ぶ鬼はぴゃっと飛び上がり、恐る恐る振り返る。

「何の、騒ぎなの?」

換気用の窓からばっちり目が合ったので、澄姫が素直に問い掛けると、山ぶ鬼の頬がかあっと赤くなり、赤いサングラスごと小さな掌で顔を覆い隠す。

「あのっ、あのっ、そのっ、ドクタケ忍者隊の人がっ、お風呂覗こうとしてたからっ!!」

何が恥ずかしいのかしどろもどろになりながら答える山ぶ鬼に、澄姫はふうん?と濡れた髪をかき上げた。

「追い払ってくれたの?」

「は、い…」

「そう、どうもありがとう」

相変わらず感情が篭っていないが、山ぶ鬼は感謝の言葉を聞いてえへへと嬉しそうに頬を掻いた。
その姿が後輩たちの褒められた時の笑みと重なり、澄姫の瞳が細められる。

「…ねえ、山ぶ鬼ちゃん。私そろそろ上がるけれど、まだ忍術教室までの行き方を覚えていないから、迎えに来てくれないかしら?」

少しの嘘を混じらせてそう言えば、山ぶ鬼が弾かれたように顔を上げる。彼女の視線の先の澄姫はまだ笑顔とまでは行かないが、精一杯瞳を優しく細めていた。

「…すぐ行きますっ!!」

満面の笑みで箒を放り出した山ぶ鬼は、全速力で風呂場に向かって走り出した。


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