その女、助けられる
雨の中、山を駆ける黒毛にしがみ付きながら、澄姫は虚ろな目をして通り過ぎる木々を眺めていた。
冷たい雨粒が頬に当たるたび、暖かい何かと交じり合う。
滅多に来ない裏々々々山さえ越え、遂に学園の敷地を出てしまった彼女は赤毛に袖を引かれて川べりに下ろされた。
雨が降っているため川の水かさは増えているが、そのすぐ脇に穏やかに湧き出る水を見つけ、澄姫は虚ろな瞳のまま赤毛の頭をそっと撫でる。
「水、飲めってこと…?」
彼女の問い掛けに悲しそうに鼻を鳴らした黒毛と赤毛に、またじわりと涙が浮かぶ。
「栗、桃、ありがとう…でも、喉、渇いてないの…っ」
雨避けさえない川べりにへたり込んだ澄姫はそれだけ言うと、美しいかんばせを歪めて俯いた。
彼女の脳裏に浮かぶのは、先程の光景ばかり。
普段なら実習やら鍛錬やらで怪我をしたとしてもそこまで痛みを感じることはないのに、彼に傷付けられた肩、頬、そして右目の脇が、いつまでもじくじくと痛む。
気遣わしげに傷口を舐めようとした栗を掌で制し、すっかり冷えてしまった自身の体をぎゅうと抱きしめる。
荒々しい流れに変わりつつある川を覗き込み、何も考えないままそっと手を伸ばしたその時、悲しそうに鼻を鳴らしていた二匹が突然唸り声を上げた。
のろのろと視線を上げた先には、汚らしい格好をした男が数人。その手には、ところどころ刃こぼれした刀。
下卑た笑みを浮かべ何かを話しているが、その声は彼女の耳に届かない。
人攫いか、山賊か…どちらにせよ普段ならば身体に触れられるどころか見られることも嫌がる澄姫は、抵抗する“理由”をなくしてしまったためぼんやりと彼らを見つめ、ゆっくりと首を傾げた。
抵抗どころか逃げる素振りさえない彼女の姿に喉を鳴らした男たちが手を伸ばし、深赤の装束に触れようとしたその瞬間。
「あー!!こんなところにいた!!」
「俺の財布返せよ!!」
けたたましい喚き声と共に現れた渋柿色の装束。見覚えのある赤い大きなサングラスは、ドクタケ忍者の証。
彼らは雨に濡れた澄姫に掴みかかろうとしている男たちを見るなり目を見開き、指を差して叫んだ。
「こっの野郎、財布泥棒の次は婦女暴行か!!」
「なんて悪党だ!!」
悪名高いドクタケ城に仕える忍者から漏れたとは思えない台詞だが、彼らは懐から苦無を取り出し男たちに飛び掛る。
突然の乱入者に驚いた男たちは奪ったらしき財布を放り出し、あっという間に森の中へと消えて行った。
川べりにぽすりと落ちた財布をサッと懐にしまったドクタケ忍者の一人が呆然としている澄姫に声を掛けようとすると、低く唸った赤毛、桃が飛びかかろうと後ろ足に力を籠める。
しかしそれよりも少しだけ早く、彼女の視界に深い緑色が滑り込んできた。
その装束の色を見て僅かに反応を示した澄姫だが、ドクタケ忍者が叫んだ名前に再度色を失う瞳。
「うわっ、フリーの山田利吉だ!!」
「本当だ!!フリーの山田利吉だ!!」
「フリーフリーとうるさいな。ドクタケ忍者がこんなところで何をしている?彼女に何をしたんだ」
「なにもしてねーよ!!」
「むしろ悪漢に襲われそうになってから助けたんだ!!」
先程と同じくぎゃあぎゃあ喚きたてるドクタケ忍者に疑いの眼差しを向けた利吉は確認のため澄姫を振り向き、そして、飛び上がった。
「澄姫ちゃん、一体どうしたんだ!?」
時折学園で顔を合わせるときとはまったく違う、覇気のない瞳。ずぶ濡れの髪は少々乱れ、装束はところどころ汚れている。そして何より、美しい顔に赤を滲ませる痛々しい傷。
知り合いか?と首を捻るドクタケ忍者の声など気にも留めず、利吉は懐から取り出した手拭で顔の傷口を押さえてやった。
「何かあったの!?こんなところで実習…と言うわけでもなさそうだし、悪漢に襲われそうにって、中在家くんは一緒じゃないのか!?」
利吉の脳裏に焼きついている、いつも彼女を守るように傍につく無表情な男。全ての敵…いや、敵と言うか害虫と言うか、彼女に近付く男を無言の威圧感で蹴散らしている彼の名を口にすると、のろのろと顔を上げた澄姫の白い頬に、雨とは違う水が伝った。
感情が窺えない瞳ではらはらと涙を流す澄姫に言葉を失った利吉の袖を遠慮がちに掴み、彼女は小さく呟く。
「…あたま、いたい……」
「ちょ…本当にどうしたんだい!?」
「わからない…あたまが、いたいの…」
「………ずぶ濡れだ。風邪を引いたのかもしれないね、学園まで送るよ」
か細い声で頭が痛いと繰り返す澄姫に利吉が優しく言うと、彼女は目を見開き、狂ったようにいやいやと首をふる。
遂には身体を支えてくれている彼の手まで振り払い走り出す。その先には、先程からごうごうと音を立てている川。
「危ない!!」
咄嗟に掴んだ腕を引き寄せて細い身体をかき抱く。伝わる震えは寒さか、それともまた別のものなのか。
とにかく尋常ではないほど取り乱している彼女をどうにかしないと、と思考を巡らせた利吉の耳に、あのー、と遠慮がちな声がやっと届いた。
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