その女、壊れる

ふらふらと覚束ない足取りで忍術学園の正門を出た澄姫は、裏山に差し掛かったところで耳を劈いた犬の鳴き声にびくりと肩を震わせた。

「……あ、え…私、何でこんなところに…確か、長次と小平太と、学園に戻ったはずじゃ…?」 

虚ろだった彼女の瞳に光が戻り、周囲を見渡して首を傾げる。なんだか狐か狸にでも化かされたような不可思議な感覚に困惑していると、くりくりとしたつぶらな瞳が二対、彼女を心配そうに見つめていた。

「栗、桃…」

小さく愛犬の名を呟いて、そっと頭を撫でてやる。栗は耳を後ろに、桃は耳を横に倒して、撫でられる感覚に小さく尻尾を振った。

「いやだ、ぼうっとしていたのかしら…さ、学園に戻りましょう」

昨夜から感じている嫌な予感…胸に渦巻くそれに気付かないふりをして、澄姫は愛犬二匹を連れて学園へと踵を返す。

無意識のうちに辿った道を戻り、学園の門が見えたその時、彼女の目に信じられない光景が飛び込んだ。
理解が追いつかず、呆然とその光景を眺めているしかできなかった澄姫だが、桃に袖を引かれて茂みから転がり出る。
そんな彼女の目の前をとことこと虚ろな瞳で歩いていくのは、可愛い後輩たち。普段見に纏っている桃色や深赤の装束から色とりどりの小袖に着替え、纏めた荷物を担ぎぞろぞろと無言で正門を出て行く彼女たちは、まさに心ここにあらず。

「あ、貴女たち…いったい、どうしたって言うの…?」

恐る恐る目の前を通りかかったまだ幼い後輩の腕を咄嗟に掴んでそう問い掛けると、オレンジ色のふわふわした髪を結い上げた少女は、ぼんやりとした瞳のまま小さな声で「実家に帰らせてもらいます」と繰り返すだけ。
その表情に、声に、瞳になんとも言えない恐怖を感じた澄姫は次々に後輩を捕まえてはその華奢な肩を揺らす。
しかし彼女たちは誰一人として「実家に帰らせてもらいます」以外の言葉を発しなかった。
愕然と立ち竦む澄姫の前から、ひとり、またひとりと消えていく後輩たち。
あまりの異常さにごくりと喉を鳴らしたその時、彼女の肩にぽんと大きな手が置かれた。

「ひっ…!!」

突然のことにらしくもなく小さな悲鳴を漏らした彼女だが、その手の持ち主を見てホッと安堵の息を吐く。

「小松田、さん…小松田さん、ねえ、一体何が…」

あったの?そう問い掛けようとしたが、その先は言葉にならなかった。
普段はにこにこと人当たりのいい笑みを浮かべる失敗ばかりの事務員、その瞳が開かれた時、その中に、狂気を見つけてしまったから。

「ここは学校ですよ。関係者以外、立ち入りはご遠慮願います」

「小松、田、さん…何、を…関係者って、私…」

か細く震える喉から何とか声を押し出したその時、澄姫の頭にずきりと痛みが走る。その痛みは次第に大きくなり、遂には鈍器で殴られているような、そんな激しい痛みへと変わった。
しかし、彼女は激痛に耐え、一体何が起こっているのかと彼に問い掛け続ける。

「ねえ、小松田さん!!関係者って、私、ここの生徒です!!平澄姫です!!」

「ここは学校ですよ。関係者以外、立ち入りはご遠慮願います」

終わりの見えない押し問答。痛みで吐き気さえ催し始めたその時、彼女の肩にまた誰かの手が置かれた。痛みと混乱で気配に気付けなかった澄姫は勢いよく振り向き、そして、やっとその顔に笑みを浮かべる。

「よかっ、た…長次、ねえ、一体、どういうこと、なの…?」

ズキズキと響く頭痛を何とか堪えながら、先程まで一緒にいた恋仲の男にそう問い掛け、そっと腕に触れようとした。




が、彼女の白い手は、無骨な手によって叩き落される。
突然のことに頭痛は吹っ飛び、澄姫はぱちぱちと数回瞬きを繰り返す。

「……長…次?」

さっきからずっと理解の追いつかない状況に、こてりと可愛らしく首を傾げた彼女の頬に、ぴっと痛みが走った。
まるで紙で指を切ってしまった時のような鈍い痛みにきょとんとしながら、頬に右手を添えて、目の前に掲げる。
白魚のような指先に、うっすらと赤。
それが血であることをなかなか理解できないでいた澄姫の肩に、再度走った小さな痛み。
ぼんやりと痛みの走ったそこを見ると、切れた装束の中から覗く、赤。

「…長……次…」

しかしそんな痛みすら、混乱している彼女には伝わらない。
再度恋仲の名を呼び、ふらふらと歩を進めて距離を詰める。しかし、その分彼はじりじりと後ずさり、まるで侵入者でも見るかのような目で、澄姫を睨みつけていた。

「……赤い装束…ドクタケの者か……」

ひゅんひゅん音を立てる、見慣れた彼の愛用武器。それに交じり、小さく呟かれた愛しい声。

「ドク、タケ…?長次、ねえ、どうしたの?何を言っているの?私よ、平澄姫よ、くのいち教室6年生の、貴方の恋仲の平澄姫よ!!」

「………平?私の知っている平は、澄姫などと言う名ではないし…この学園にくのいち教室など、存在しない…まして私に、恋仲など……いない」

混乱のあまり取り乱し、思わず長次に掴みかかった澄姫。しかしその細い身体は簡単に突き飛ばされる。
茫然自失のまま見上げた彼の目はとても冷たく、そして、その声はあまりにも残酷なことを彼女に告げた。

遂に彼女の脳が現状の理解を拒み、突き飛ばされたままの体勢で力なく項垂れる。
じわりと浮かんだ涙が視界を奪い、それに呼応するかのようにぽつりぽつりと雨が降り出した。

「………早々に、立ち去れ…」

徐々に激しさを増す雨音に掻き消されそうな小さな声が、空寒さを含んで彼女に投げ掛けられる。
もはや立ち上がる気力もない澄姫が、どうか夢でありますようにと祈りながら縋るように顔を上げると、彼女の涼しげな瞳のすぐ傍を、縄標が掠めていった。
皮膚の薄いその部分から大量の血が溢れ出し、雨に濡れた地面にぽたぽたと赤い華を咲かせていく。

「………次は、外さん…」

吐き捨てるようにそう言われ、澄姫の瞳から完全に光が消えた。





完全に無抵抗の彼女に再度縄標が打たれようとしたその時、正門の外の茂みが突然ガサガサと音を立て、2匹の山犬が牙を剥いて飛び出した。
赤毛が長次を牽制しているうちに、黒毛が乱暴に澄姫の体を背に乗せ裏山へと走り去る。その後を追うように颯爽と消えた赤毛。

突然の乱入者に侵入者を取り逃がしてしまったと歯噛みする長次だったが、ふと、足元に何かが落ちていることに気が付く。
すっかり濡れた地面からひょいと拾い上げたそれは、翡翠の飾りの付いた質素な簪。
先程の女の手掛かりになるだろうと思った長次はそれを懐に仕舞い、一旦友人たちの待つ場所へ戻ることにした。


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