その女、忘れる

来た道を走りながら、先程見た光景に澄姫はなんとなく不吉な予感を感じた。
それは夜中、恋仲の腕の中で感じたものとよく似ており、彼女は無意識のうちにぐっと拳を握り締める。

「……澄姫、どうかした、のか…?」

それを目ざとく見つけた長次が小さく声を掛けると、彼女は走りながら彼の瞳を見つめた。

「…いいえ、なんでもないわ」

まだ自分でも良くわからない不安を口にして、優しい彼に心配を掛けたくない…そう思った澄姫は柔らかく微笑み、緩く首を振った。
しかしその行動に違和感を感じたのか、再度問い質そうと長次が口を開いたその時、彼の言葉にからかうような言葉が被せられる。

「おーい、イチャイチャするなら後にしろー!!遅刻するぞー!!」

いつの間にかすぐ近くに見えていた正門の前で立ち止まり、大きく手を振りながら喚いた小平太と、入門表を手にした事務員の小松田さんに笑われ、澄姫の頬がかっと赤く染まる。

「いっ、お、大きな声で変なこと叫ばないでよ!!」

小平太に勝るとも劣らない大きな声でそう喚いた澄姫が正門に飛び込み、長次は思わず出かかった言葉を飲み込んだ。
彼女の態度に、言葉に、表情にざわりと胸騒ぎが過ぎる。
何か良くないことでも起こりそうな、そんな予感がする。
自分の杞憂であればそれでいいので、その存在だけでも友人と大切な恋仲に告げようとした長次が正門をくぐった、その瞬間。

甘ったるい臭いと、平衡感覚が失われたような目眩に襲われた。

「小平太、長次、どこに行ってたの?」

まるで砂糖を水あめで練ったような、胸焼けしそうなほど甘い甘い声が耳に届く。
なかなか焦点が合わない視線を無理矢理声のほうへ向けると、そこにはぼんやりと突っ立っている小平太の後姿。まるで膜が張られたような世界で、犬の吠える声が聞こえるような気がするが、長次の意識はそこでぶちりと途切れた。

同じようにぐわんぐわんと揺れる頭で、澄姫は目の前に立つ女をぼんやりと見た。彼女は緩やかにうねる長い黒髪を風に遊ばせて、大きな瞳を優しく細めている。

「小平太、長次、遅刻するわよ?」

そう声を掛けて、2人の手を引くとても美しい女。
彼女の纏っている深緑色の着物は、なんだった?
纏まらない考えを何とか纏めようと、じいっと見つめていると、彼女が澄姫を見て、そして、美しく微笑んだ。

「こんにちは。学園に何か御用?それとも、ただの“ワンちゃんのお散歩”なのかしら?」

ぐるぐると渦を巻く頭の中に、彼女の“ワンちゃんのお散歩”という言葉だけがひたすらに大きく響く。

「…散、歩…」

繰り返すように虚ろに呟くと、彼女はそう、と綺麗に微笑んだ。

「なら、早くお家へお帰りなさいな。ここは学校よ、授業の邪魔になるわ」

“学校”“授業”…これらの言葉に引っかかりは感じたものの、纏まらない頭ではそれが何かがわからない。
しかし“お家”という一言に、一瞬脳裏を過ぎった誰か…その映像に、澄姫はぼそりと、あなた誰…と呟いた。
それが、自分に対しての問いだと勘違いしたのだろう。
美しい女は、風で顔にかかってしまった髪を細い指先で耳にかけ、ふわりと微笑んだ。

「…私は、平月妃。この学園の、6年生よ」

平月妃、たいら、つきひ…どこかで聞いたことがあるような、ないような…そんな思考が一瞬頭を過ぎったものの、澄姫はまるで熱に浮かされたようにぼんやりした瞳で彼女に一礼すると、踵を返して正門を出て行った。
その際袖や袴を犬に引っ張られたが、彼女の足は止まることはなかった。


平穏なはずの忍術学園に、奇妙な霞が掛かり始めていた。


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