好きが溢れた

背中に焦がれたぬくもりを感じて、長次は静かに肩から力を抜いた。
まだ少し混乱しているが、ようやく考えも纏まり、普段の冷静な自分が戻ってきたのを感じる。
そして、そこでやっと背中に触れるぬくもりも震えていることに気が付いた。

「………ごめんなさい…」

小さな謝罪が転がり落ちて、彼の瞳が揺らめく。
ぎゅう、と装束が後ろに引っ張られ、甘い香りがふわりと2人を包み込んだ。

「……何故、謝る…」

すっかり普段通りの落ち着いた低い声で背中に問うと、ますます装束が後ろに引かれる。謝罪に混じって小さな嗚咽が耳に入り、長次の眉間に皺が寄る。
彼の背中に張り付いたまま、澄姫はただひたすらに『嫌いにならないで』と繰り返していた。
その言葉を聞くたびに、長次の胸に渦を巻く感情。
その感情のままに背中のぬくもりを引き離そうとすると、絶対に離すもんかとでもいわんばかりにぎゅうぎゅうと張り付いてくる澄姫。

「……離せ…」

「っや、いや、いや…っ!!ごめんなさい!!お願い、嫌いにならないで!!捨てないで!!」

長次の一言を拒絶と取った彼女は必死にしがみ付き、いやいやと繰り返して首を振る。背中にじわりと染み込んだ彼女の涙が、いやいやをするたびにぽたりぽたりと床を打つ。
それが視界に飛び込んだ長次は、些か強引に彼女を引き剥がし、くるりと体勢を変えて震える澄姫をきつく抱き締めた。
ずっとずっと求めていた体温、愛しい香り、柔らかな声。

「……背中に張り付かれていると、私が…お前を、抱き締められない」

ほんの短い間なのに、澄姫に触れられずからからに乾いてしまった彼の心は、もう一度愛しいぬくもりを腕の中に抱き締めただけですっかり潤いを取り戻す。
悪夢のような我慢の期間は、どうやら終わりを告げたらしい。
長次の胸に顔を埋めたまましゃくりあげて泣いていた澄姫も、際限なく涙を零しながら、その広い背中に腕を回して、離れていた時間を塗り潰すかのように彼のぬくもりを求めた。



暫くそうして、やっと澄姫の嗚咽が落ち着いてきた頃を見計らい、長次は優しい手付きで額に張り付いた髪を払い、赤くなってしまった彼女の目尻にそっと触れ、親指の腹で涙を拭う。

「……まんまと、騙された…」

そして恥ずかしそうに目を逸らしながらそれだけ呟くと、澄姫もまた悲しそうに目を伏せて、もう何度目かの謝罪を口にした。

「本当は理由を説明してから行動に移ろうと思っていたのだけれど、思った以上に遭遇が早くて…実は、学園に戻ったあの日の朝…湯浴みをしようとくノ一長屋のお風呂場へ行ったら、後輩たちが神妙な顔をして私を待っていたの」

そしてようやく、彼女が…いや、彼女たちが突然おかしくなった理由を、ぽつりぽつりと話し始めた。

彼女が裏々山から戻ったあの朝、風呂場の前で待っていた後輩たちはやけに神妙な顔をして、話がありますと彼女を部屋に招いた。
友人たちから聞いていたのとはまったく違う彼女たちの態度に違和感を感じた澄姫は黙って部屋に入った。そこにはなんと食堂のおばちゃんと担任である山本シナ先生もおり、部屋に立ち込める剣呑な空気に大層驚く。
聞けば、あの“諸浜稔”が現れた当初から彼女らは男から漂う血の匂い、薬の匂い、そして、その身のこなしを怪しんでいた。
学園長先生の指示が出て、やはり何か裏があると確信しながらも、最高学年生の澄姫が不在である以上勝手なことができずに、とりあえず自身の容姿を利用し、油断させ、男に近付き、その情報をこつこつと集めていた。
その結果、どうしても忍たまとの差別化を計るしかなかったので、彼女たちは友人や恋仲である忍たまたちに辛く当たった。それが何を招くか、しっかりと覚悟をした上で。
結果調子に乗った男の所為でますます忍たまとの溝が深まってしまったが、解決してから理由を話せばきっとわかってくれるという思いがあったからこそ、彼女たちは態度を変えず、信念を曲げず、澄姫の帰還をじっと待ち、機会を窺っていた。
それを聞かされた澄姫は、そこまで学園を大切に思っている彼女たちに心打たれ、それならばと率先して男に近付くことを申し出る。
最初は恋仲の長次に申し訳ないからと止められたが、他にも恋仲のいる子が辛い思いをして頑張っているのに、自分だけのうのうと蚊帳の外、と言う訳にはいかないと説き伏せ、件の行動に繋がる。

「…長次と一緒にいられなくなったことは凄く寂しかった。貴方ったら私のことを視界に入れてさえくれなくなるんですもの…遠目から見つめているだけなんてとても辛かったわ。でも容姿端麗の私にあの男が夢中になってからは本当に順調で、すっかり油断したのか仲間との連絡の際はくノ一長屋の敷地を通って出て行くようになったし、身のこなしもますます地が出てきて、このまま行けばすぐにでも尻尾を出すと、…だけど」

一通りの説明を終えて、長次が成程、と彼女の突然の変貌に納得したその時、澄姫が言葉を濁して俯き、ばつが悪そうに頬を染めた。

「……だけど…?」

囁くように彼女の言葉を繰り返すと、きょろりと視線を彷徨わせた澄姫は長次の胸にばすりと顔を埋め、もごもごと聞き取りにくい声で呟く。

「…本当は、連絡の現場を押さえて捕まえる手筈だったの…でも、でも、あの男長次に酷いこと言ったでしょう!?私、どうしても許せなくて…」

手が出ちゃった…と耳まで真っ赤にして呻いた澄姫に、とうとう長次の胸で渦を巻いていた感情が溢れて零れる。

正直本当に、捨てられてしまったかと思った。
彼女の隠された本音を混乱のあまり汲み取れず、最後まで彼女を信じ切れなかった自分が恥ずかしい。
だが、彼女はいわば忍務の遂行中にもかかわらず、自分に向けられた罵詈雑言であんなにも怒り狂ってくれた。
長次は、不謹慎ではあるがそれが何よりも嬉しかった。


わずかの隙間もないくらいに澄姫を抱き締め、額、瞼、頬と順番に、そして、辿り着いた柔らかな唇に噛み付くように口付ける。
息も出来ない激しい口付けに彼女の白い指が装束を掴むが、お構いなしとばかりに柔らかな唇を自分の形にするような深い、深い、口付け。
腕の中の澄姫がくたりと力をなくしてきた頃、ようやく長次は、ちゅ、ちゅ、と軽く啄むように数回唇を合わせてから彼女を開放してやった。
酸欠を起こしかけた彼女ははあはあと息を切らしているが、滅多にない、本当に珍しい長次の激しい口付けにその顔を林檎のように真っ赤にし、彼の腕に縋るようにしがみついた。
その瞳はすっかり熱を孕み、彼だけを映している。
そんな彼女を長次は優しく抱き上げ、のそりと一歩踏み出す。

「長次…あの、ほら、追いかけ、ないと…」

感情の起伏が乏しい彼の瞳にひとつの色を見た澄姫が焦ったように細い指で食堂の外を差すが、視線すら向けずに無言で食堂を出て行こうとする長次。
横目でちらりと彼女を見て、彼はすうと目を細めた。
それが何を意味するのか嫌と言うほど理解している澄姫は、もうこれ以上赤くならないという程真っ赤な顔を隠すように、長次の首にしがみ付いた。





「…んふふ、若いっていいわねぇ…」

そんな2人が食堂を出て行った後、一体いつの間に来ていたのか、食堂のおばちゃんがカウンターに隠れながら、ニヤニヤと笑っていた。


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