茶番劇の終わり
視界を閉ざした長次の耳に、ばしゃんと言う水音が飛び込んだ。
驚いて目を開けると、嘲笑していた稔が頭からお茶を垂らして呆然と立ち尽くしている。
自分が目を閉じている間に一体何が起こったのかと微かに眉を顰めた長次だが、次の瞬間信じられないものでも見るように目を見開いた。
稔に腰を抱かれながら、空の湯飲みを右手に持ち、にこにこと笑っている澄姫。そんな彼女の全身から、肌を突き刺す殺気が放たれている。
食堂の隅に固まって震えていたくのたまの誰かが、小さな声であーあ、と呟いた。
「跪きなさい」
瞳孔全開で、背筋が凍りつきそうなくらい冷たい声の澄姫が告げる。
現状がよく理解できない長次と稔が呆然と立ち尽くしていると、彼女はもう一度、綺麗に微笑んで跪きなさいよ、と繰り返した。
「…澄姫?」
「気安く呼ばないで頂戴」
稔の呼びかけをぴしゃりと拒絶した彼女は、持っていた空の湯飲みを床に投げつける。
ガチャンと大きな音を立てて割れた湯飲みにびくりと身を竦ませた稔は、え、え、と混乱のままに呟き、のろのろと手を伸ばした。
その手を澄姫愛用の武器がガツンと打ち、突然の痛みに悲鳴が上がる。
「何をするんだ澄姫!!?」
咎めるように怒鳴った稔だが、向けられた視線の冷ややかさにひくりと喉を引きつらせた。
「何度言わせるの?…気安く私の名を呼ぶな」
「なっ、お前、騙したな!?俺のことを愛していると言った癖に!!」
ようやく理解が追いついた稔が怒りに任せて叫ぶと、澄姫はぱちぱちと瞬きを繰り返し、くすくすと小さく笑い始めた。
「いやだ、私が貴方を愛してるですって?そんなこと、一言も言ってないわ。貴方が勝手にそう“思い込んだ”だけでしょう?」
口元に手を当てて笑い続ける彼女に、稔の表情がどんどんと引き攣っていく。彼が低くふざけるなよ、と唸ると、澄姫がぴたりと笑いを止めた。
「ふざけるな?ふざけるなは私の台詞よ…べたべたべたべたと気安く触れてくれて、気持ち悪いったらないわ。貴方、この身体が誰のものなのかわかっていて?」
「なんだと!!?」
「あらいやだ。人を散々貶めておいて、自分がされたらすぐに怒るのね」
最低、と呟いた彼女の唇が、三日月のような弧を描く。
それを見た上級生が、食堂で震えている下級生たちを慌てて外に連れ出す。唖然としていた長次もはっとしてきり丸の背中を押し、彼を食堂の外へと追いやった。その間も、澄姫は稔に暴言を吐き続ける。
「性格も軽ければ頭も軽いのね、おめでたいこと」
「この女…言わせておけば…!!」
すっかり頭に血が昇った稔は彼女に飛びかかろうとしたが、ひゅんと振られた彼女の武器の先についている錘で足元を打たれ、舌打ちしながら飛び退いた。
彼女の間合いに飛び込むことができず悔しそうに歯を剥いた稔に、侮蔑を含んだ視線が再度注がれる。
「言わせておけば、もこっちの台詞よ。私の長次に好き勝手言ってくれちゃって、本当に頭にくるわ。こんなことなら最初から下手に出ずに力尽くで何でも聞き出せばよかった」
聞き出せば、と言う彼女の言葉を聞いて、とうとう稔の肩がぎくりと跳ねる。きょろきょろと定まらない視線は助けを求めるように食堂の隅のくのたまたちに向けられるが、彼女たちは先程とは全く違う笑顔を浮かべて、じっと彼を見ているだけ。
じわりと浮かんだ冷や汗をそのままに、もう一度澄姫に視線を戻すと、彼女は妖艶に笑いばしりと床を打った。
「…まさか、気付いてないとでも思っていたの?白檀の香りに、微かに薬の香りが混じっていたわ。それに、匂いで誤魔化しても貴方血生臭いのよ。身のこなし、気配の読み方…未来から来ただなんて嘘よね、雇われ忍者さん?」
確信を含んだ澄姫の声に、稔は一瞬だけ目を見開いた。それが肯定を意味するものだと判断した彼女はニタリと笑う。
「プロの忍者さん、あまりくのいちのたまごを舐めないで頂戴。私たち、可愛いだけじゃないの」
言うが早いが、稔の周りに深赤と桃色の壁が出来上がり、各々得意としている武器を携え、いつでも飛びかかれるように身構えている。
多勢に無勢、とはまさにこのこと。いくらプロの忍者でも一筋縄ではいかない包囲網に、すっかり化けの皮を剥がされた稔は悔しそうに歯噛みする。
「クソッ!!」
悔しそうにそう呻き、どこからか取り出した煙玉を投げつけ姿をくらまそうと食堂を飛び出した彼を、くのたまたちが追いかけていく。
澄姫もまた食堂の裏口から外へと飛び出し、指笛を吹いた。
すぐに彼女の愛犬二匹が駆けつけ、彼女の追え、と言う指示の元走り出す。
忍たまのほうには食堂に居合わせた生徒たちが知らせてくれるだろうと当たりをつけた彼女はすっかり人がはけた食堂に戻り、ひとり立ち尽くしている長次の背中にそっと触れた。
いつも守られるたびに見つめるその背中は微かに震え、沈黙が空間を支配する。
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