アカシアの雨

放課後のこと。
最近どこか無理をしているように見える後輩たちのために、また自分の気分転換もかねて長次は食堂のおばちゃんに台所を借りてボーロを作っていた。
ひとつは彼が率いる委員会の後輩のために、ひとつは友人たちのために、そしてもうひとつは、暫く会話さえ交わしていない澄姫のために。
諸浜稔と言う人物の存在とその危険性を話し合った直後だというのに、突然その男にべったりになってしまった彼女。何か作戦があってのことなのか、それとも、他のくのたまのように惑わされてしまったのか。
前者ならば何も問題はないが、もし、もしも最悪後者ならば、ひとつ受け取ってもらえない可能性が出てくる。それでも、彼は丁寧に三つのボーロを焼き上げた。
彼女に受け取ってもらえなければ、後輩にあげればいい。
そう思い、もうすぐ焼けそうなボーロを眺めて、まずは友人たちのいる長屋に向かおうと決めた、その時。

楽しそうに談笑しながら食堂に入ってきた諸浜稔と、視線が合った。
彼の隣には、相変わらず美しい微笑みを浮かべている澄姫。

彼女の後ろからぞろぞろと姿を現したくのたまたちを見て、食堂にいた忍たまたちの顔が強張る。

「あっれぇ?中在家君こんなところで何してるの?なんかすっごいいい匂いするけど」

一瞬にしてぴんと張り詰めた空気に気が付かないのか、稔は暢気に笑って椅子に腰掛ける。そんな彼の周りに、桃色と深赤が次々に腰掛ける。
きゃあきゃあと楽しそうにお茶の準備を始めたくのたまたちの中で楽しそうに笑っている澄姫を視界に入れてしまった長次は、ボーロを作っていると伝えようとしたが、声が出なかった。
開きかけた口を閉じ、俯く。
そんな彼の耳に、たかたかと小さな足音が聞こえ、次いでひょこりと楽しそうな笑顔が食堂の出入り口から覗いた。

「中在家先輩!!そろそろボーロ焼けま、し…」

たか、と言う言葉は笑顔と共に途中で消えてしまった。
淹れたてのお茶を啜りながら談笑を続けているくのたまと、稔と、長次が揃って飛び込んできた井桁を見ると、彼は眉を吊り上げ、どすどすと無言のまま足音荒く台所に飛び込み、長次の腕を強引に引いた。

「中在家先輩、不破先輩が呼んでます!!急いで図書室に戻ってください!!」

先程の言葉を途中まで聞いていたのでそれが明らかに嘘だとわかるが、長次は後輩の不器用な気遣いに心の中で感謝した。
だが、そんな優しい感情はたった一言で黒く塗り潰されてしまう。

「え、何、中在家君ボーロなんか作れるの!?顔に似合わず器用なんだね!!」

明らかに悪意が篭った稔の一言を聞いて、きり丸が眼光鋭く彼を睨む。しかしそんな視線など気にも留めず、稔はくのたまを侍らせたまま口角を上げた。
その瞳には、明らかな敵意が宿っている。

「そっかあ、いや、すごいねえ。でもそんな女々しい趣味だから、大事な恋仲に愛想尽かされちゃったんじゃないの?」

げらげらと大きな声で笑いながら、彼は隣に座る澄姫に同意を求めるようにねえ、と首を傾げた。

「何だと!!?」

「……よせ…」

歯を剥いて反論しようとしたきり丸を片手で制し、長次は吊り上りそうな口角を何とか抑えてボーロの焼け具合を見る。
そろそろいい具合になったそれを皿に移して、早足で食堂を出ようとした彼の背中に、嘲笑を含んだ声が吐き捨てられた。

「負け犬」

カッと頭に血が上り、目の前が赤く染まる。怒りのあまり涙目で口をはくはくと動かすしかできないきり丸を背後に隠し、長次はゆっくりと振り向いた。

「……へへ、うひひひ…」

胸の奥に押し込めていた黒い感情が、不気味な笑いと共に溢れ出す。それを見て青褪めたくのたまたちは慌てて立ち上がり食堂の隅のほうへと避難する。
だがただひとり、澄姫だけは薄く笑ってその様子を黙って見ていた。
稔は稔で長次の怒り方に驚いたが、次の瞬間ふんと鼻で笑った。

「怒るのか笑うのか、どっちかにすればどうだ?とことん変わってるな」

そう嘲け笑い、澄姫の腰に腕を回して抱き寄せる。その光景がますます長次の怒りを増幅させ、食堂の空気は凍り付いていく。

「……いい加減にしろ…」

低い低い、殺気を孕んだ声がぼそりと落ち、居合わせた生徒たちはその迫力にがたがたと震え出す。
だがしかし、稔はいやらしく笑い続け、ますます澄姫をきつく抱き寄せる。

「中在家君こそ、いい加減にこの子を諦めたらどうだい?男らしく身を引こうよ。いつまでもだらだらと女々しく見つめているなんて、気味が悪い。彼女も怖がっていて可哀想じゃないか」

とっくに心は君から俺に移っているんだよ、ねえ澄姫?
そう勝ち誇ったように問い掛ける稔と、微笑む彼女。





「ええ、本当に、いい加減にして頂戴。いつまで私の恋仲気取りでいるつもりなのかしら?」

鈴を転がすような哂い声を聞いて、長次の瞳から全ての感情が消えていく。
澄姫をずっと信じていたのに、彼女から放たれた一言で足元が崩れ奈落の底へ落ちていくような感覚に襲われる。
今までの思い出がバキリバキリとひび割れる音、それが、彼の呼吸を妨げる。

とうとう、心まで離れてしまったのだろうか。
傍観していた自分が、間違っていたのか。
信じているのに、何故。
愛しているのに、何故。

ぐるぐると渦を巻く感情の海に放り出された長次は、悲しみが滲んでしまった瞳をゆっくりと伏せた。


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