月光牙の魔女

冷たい風が吹きすさぶくノ一長屋の屋根の上に、長く艶やかな髪を風に遊ばせて立ち尽くす影がひとつ。
彼女は無言で空に浮かぶ三日月を眺めてから、自身の髪に飾られている簪を抜き取り、月にかざした。

「…みちのくの しのぶもぢずり たれ故に 乱れそめにし われならなくに」

しゃらりと綺麗な音を立てて揺れた翡翠のそれを眺めて小さく呟くと、彼女はくすりと笑った。

「…がらじゃないわね」

白いと息と共に吐き出してしまった想いに自嘲し、簪を再度髪に飾る。ひゅうと一際冷たい風にぶるりと身を震わせた澄姫が部屋に戻ろうかと月から視線を外したその時、暗闇の中こそこそと正門から出て行く人影を見つけ、きらりと瞳を輝かせ音を立てずに屋根から下りた。


ひょいひょいと身軽に正門を乗り越え、目当ての人物を追いかけていく。
裏山に入ってすぐ、木々の合間で立ち止まった男の背に、なるべく脅かさないように小さく声を掛けると、男はゆっくりと振り向いた。

「……稔さん」

「やあ、澄姫ちゃん。こんな夜更けに何か用かな?」

特に驚いた様子もない男に、彼女は安堵の息を吐き、ゆっくりと首を振る。

「いいえ。ただお姿を見かけたので、追いかけてきただけです」

「わざわざ俺を?それは嬉しいなあ」

控えめに言葉を交わしながら、お互いに歩を進めて距離を縮める。微笑んだ稔が腕を伸ばせば、澄姫の細い体は何の抵抗もなく彼の胸に飛び込んできた。
彼女もまたやんわりと微笑み、鍛え上げられた胸板に頬を寄せる。
稔はそれに気分を良くしたのか、くつくつと喉の奥で笑い、澄姫の髪に飾られている簪をひと撫でした。

「…いいの?恋仲がいるって、聞いたけど?」

「あら、私にも選ぶ権利はあると思うのだけれど…」

挑発的に笑って顔を上げ、視線を合わせる。そんな彼女の艶やかな唇に、そっと稔が己のそれを合わせようとした。
だが、その行為は澄姫の白い指によって遮られる。

「酷いな、お預け?」

「だぁめ。まだ、ね。それに、私は嫉妬深いの。稔さんも、あまり他の女の子と仲良くしないで頂戴ね…ちゃんとしたら、その時は、私の全てを、あ、げ、る」

唇が触れ合いそうな距離で彼女が甘く囁くと、稔はそれは楽しみだ、と笑った。
もう一度強く抱き締めようとした彼が腕に力を籠めようとした瞬間、まるでお見通しだといわんばかりの動きでするりと腕から逃れ、澄姫はひょいと一歩下がる。
くすくすと悪戯に微笑む彼女に魔女と言うのはあながち嘘じゃないね、と稔は苦笑した。

「ねえ。澄姫ちゃんは、俺のことが好きなんだろう?…信じて、いいんだよね?」

まるで確認するように問い掛けた彼に、澄姫はきょとんと目を見開いた後、柔らかく微笑んで口を開く。

「…私が信じてと言えば信じてくれるの?それは、貴方が自分で決めることよ」

三日月の微かな光を反射させた瞳が星のように煌き、彼は思わず息を呑んで見惚れる。そんな様子に満足したのか、彼女は小さくお休みなさい、と呟いて、軽やかに跳躍した。
その細い影が見えなくなった頃、ようやく稔は一息吐き、額を押さえてくしゃりと笑った。

「…全く、とんでもない魔女に惑わされたもんだ」

甘くときめく胸を押さえて、彼もゆっくりと学園に向かい歩き出す。
その背後で、茂みが不気味に音を立てた。


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