たまごの決意

「ねえ、稔さん。お時間あるならお茶しませんか?」

「あら稔さん、丁度良かった。少しお話しませんか?」

「いやだ、もう、稔さんたらお上手なんだから」

休み時間のたびに聞こえてしまうその声に、長次はゆっくりと目を伏せる。しかし綺麗に微笑む恋仲の姿が嫌でも瞼の裏に浮かび、人知れず大きな溜息を吐いた。
諸浜稔と言う男が学園に来てから、もうどれくらい経ったのだろうか。
彼女が自分に笑い掛けてくれなくなってから、もうどれくらいだろうか。
綺麗に色付いていた日常はすっかり色褪せてしまい、長次の心を緩やかに蝕んでいく。
ともすれば嫉妬で狂ってしまいそうな彼の心を唯一支えていたのは、時折視界に入る澄姫の綺麗な長い髪に揺れる翡翠色の簪と、彼女の熱烈な一言。

“貴方以外を愛さないし、愛するつもりもない”

はにかみながらもしっかりとそう告げた彼女の言葉を幾度となく頭の中で繰り返し、詰まるような喉の奥の痛みをやり過ごす。
なるべく冷静でいよう、彼女を視界にいれずにおこう。長次はそう考え、今日も図書室に篭り溜まっている修繕を片付けてしまおうとその場を後にした。

だから、彼は気付かない。
そんな後姿をじいと見つめる、ひとつの視線があることに。



「…もう、限界だ」

それとほぼ同時刻、ぐしゃりと前髪を握り悲しそうに呟いたのは、空色の井桁模様。黒いスカーフを風に揺らした小さなたまごは、普段は活発に瞬く猫目をぎろりと鋭く細め、たかたかと食堂を出て頼れる友人たちのいる教室へと掛けていった。







いつもはわいわいと賑やかな1年は組の教室は、しんと静まり返っていた。それぞれが真剣な顔をして、小さな声で何かを話している。

「…あの男を、学園から追い出そう」

子供ながらに迫力のある声でそう呟いたのはきり丸。彼はぐっと拳を握り、ぐるりと自分を取り囲む友人たちを見た。
その意見に賛成したのは三治郎、虎若、団蔵、金吾、兵太夫。しかし、乱太郎、しんべヱ、喜三太、伊助、庄左ヱ門は困惑の眼差しで顔を見合わせている。

「きりちゃん、ちょっと落ち着いて…」

「だって、中在家先輩が!!」

かなりいきり立っている親友を落ち着かせようと声を掛けた乱太郎だが、向けられた悲痛な視線と叫び声にぐっと唇を噛んだ。
驚きと悲しみに彩られた乱太郎の顔を見てきり丸は一瞬眉を下げたが、その顔を泣きそうに歪めて再度、だって、と呟く。

「…中在家先輩が、辛そうなの…もう、見てたくないんだ…」

じわりと猫目に浮かんだ涙を乱暴に袖で拭い、きり丸は震える声でそれだけ言って黙りこくった。その背を、そっと伊助が撫で摩ってやる。
自身が所属する委員会の委員長を兄のように慕っているきり丸の気持ちが痛いほどわかる虎若と三治郎も、同じように悲しそうな顔をして俯いた。
2人もまた、諸浜稔に夢中で最近顔を見せてくれない美しい委員長を思い、ぎゅっと拳を握り締める。

「おれは、協力する。このままじゃだめだっておれも思うから」

「ぼくも、団蔵と同じ気持ちだよ」

大声で泣きたいのを必死に我慢している友人を見て、一際正義感の強い団蔵と金吾がキリリと強い眼差しで頷き合う。
それを見て、しんべヱと喜三太は怯えた様に手を握り合った。
そんな緊迫した空気の中、冷静な声がひとつ。

「皆、ちょっと待って。ぼくの話を聞いてくれるかな?」

ピシリと手を上げてはっきりそう言ったのは、学級委員長の庄左ヱ門。全員の視線が集まったことを確認した彼は、一度大きく頷いてからゆっくりと口を開いた。

「…これは、本当は内緒なんだ。絶対に、誰にも言っちゃだめだよ。

鉢屋先輩と尾浜先輩が話しているのを偶然聞いたんだけど、あの諸浜稔って人、とんでもなく強いらしい。だから、先生たちはあの人を学園で保護するという名目で監視しているんだ。だってよく考えてよ、6年生や5年生が動かないんだよ?なにか考えがあるんだと思わない?」

ヒソヒソと声を潜めて囁く庄左ヱ門の言葉に、誰もがハッとする。

「だろ?もしここでぼくらが勝手に動いて、5年生が強いというあの人に敵うと思う?何か作戦の途中だとしたら、どうする?ぼくらはまだ1年生だけど、忍者のたまごだ。どんな時でも冷静に、状況を見極めないと」

しっかりと、有無を言わせないような迫力を籠めてそう皆に言い聞かせる庄左ヱ門に、きり丸がでも、だって、と縋ったその時、がらりと教室の扉が開かれた。
驚いた11人が一斉に視線を向けると、そこにはふたつの桃色。

「庄左ヱ門の言う通りよ。余計なことしないで」

艶やかな紺色の髪を揺らして、トモミが鋭い視線と言葉を投げる。まだ記憶に新しい辛辣な言葉が脳裏を過ぎり、数人の肩がびくりと跳ねた。
ずかずかと遠慮なく教室に入ってきたトモミはきり丸の前でぴたりと足を止め、少しだけ赤くなっている目尻を親指で優しく摩る。
同じく教室に入ってきたユキが、びくびくとしている乱太郎をじっと見つめ、ほんの一瞬、わずかに悲しそうな顔をした。

「…ユキ、ちゃん?」

その表情に違和感を感じた乱太郎が戸惑いながらも彼女の名前を呼ぶと、つり目がちな瞳が柔らかく細められる。

「…信じて、お願い」

風の音にさえ掻き消されそうな小さな小さな呟き。それを残して、彼女たちはまたキリリと表情を引き締めて、さっさと踵を返し教室を出て行った。
様子のおかしい2人の様子に首を傾げていた11人は、しっかりと耳に飛び込んだ優しい囁きに驚きつつも、一度大きく深呼吸してお互いを見合う。

「…やっぱり、これはなにかあるね」

「「「もう少し、様子を見よう」」」

満場一致でそう決まった意見に、不安そうにしていたしんべヱと喜三太はようやく微笑んだ。


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