誘惑〜謀〜

会計室には会計委員会の面子がそろって帳簿計算をしていた。

天女が学園に降ってきてからも委員会は滞りなく行われていた様だが、その時間、特にいつも徹夜続きで行われていた会計委員会の活動時間は目に見えて減っていた。
というよりも、委員長である潮江文次郎が食事の時間になると天女の居る食堂へと向かってしまい、なかなか戻ってこない。
普段から手間取っていた活動内容に加え、主戦力の委員長の戦線離脱。
4年生や3年生が代わりをこなせる訳もなく、黙ってひたすらバチバチと算盤を弾く田村三木ヱ門と神崎左門の目の下にはくっきりはっきりと濃い隈が刻まれてしまっていた。
澄姫は後輩たちの顔を悲しげに見やり、会計室に踏み込んだ。


「何の用だ」

澄姫の気配に気付いていたであろう文次郎は、目線を帳簿に注いだままそう問いかけた。
彼の後ろには山のように帳簿が積まれているが、その顔にいつもの濃い隈は見られなかった。

級友の健康そうなその顔に澄姫は内心毒を吐く。
4年生や3年生の濃い隈、まだ幼い1年生の2人も、うつらうつらと舟を漕ぎながらも眠気に耐え算盤を弾いている。
なのにこの男は隈もなく、同室の友人に窘められやっと現状に気が付いたのだろう。
そう思うと、澄姫ははらわたが煮えくり返るようだった。
しかし、そんな内心に反し、彼女の顔には柔らかな笑顔が浮かぶ。

「この優秀な澄姫が手伝いに来たのよ。文句でもあるの?」

人手ならいくらでも欲しいこの会計委員会に、手伝いに来たと申し出て帰れと言われるようなことはないに等しい。
案の定文次郎もそう言われてしまっては、居心地悪そうに帳簿を投げるしかなかった。


算盤の音だけが響く会計室に、いくつかのいびきが混じり始めた。
澄姫が目線を上げふと外を見ると、あたりは既に真っ暗になっており、闇に覆われた校庭のほうから暴君の鳴き声がかすかに聞こえてきた。
いつの間にやら喜八郎を長屋に送り届けた仙蔵も手伝っており、思ったよりも澄姫は集中していたことに気付く。

途切れた集中力そのままに部屋を見渡すと、1年生の加藤団蔵と任暁佐吉はすやすやと可愛らしい寝息を立てて完全に夢の中。
3年生の神崎左門に至っては白目を向きながら僕は寝ていない僕は寝ていないとブツブツ言いながら涎を垂らしていた。
かなり面白いことになっている左門に思わず吹き出すと、顔を上げた仙蔵と目が合った。

澄姫は文次郎に気付かれないよう仙蔵に頷き返すと、カタリと筆を置いた。
それに合わせて仙蔵があくまで自然に、もうこんな時間か、と呟く。
仙蔵のその呟きに、集中していた文次郎と三木ヱ門も顔を上げて外を見る。

「だいぶ進みましたね」

三木ヱ門が文次郎の後ろに積まれた帳簿を見ながらそう言うと、仙蔵がばきばきに凝り固まった肩を鳴らしながら声を掛けた。

「田村、神崎左門を長屋に送り届けてやれ。私は1年を連れて行く」

そう言って団蔵と佐吉を両脇に軽々と抱え、文次郎に向き直る。

「こいつらを届けたらすぐ戻る」

珍しく優しい仙蔵の態度にどこか違和感を感じつつも、文次郎は頷いた。

「ああ、すまんな」




急に人数の減った会計室はしんと静まり返り、文次郎はまた居心地が悪くなる。
6年間も共に学び続けた友人は気心の置けない仲ではあるが、黙っていれば澄姫は誰もが振り返る美貌の持ち主。
蝋燭の頼りない明かりに照らされた彼女はどこか物憂げで、伏せられた長い睫毛がその整いすぎた顔に影を作る。

「なに?」

少々薄めの、それでも柔らかな澄姫の唇からそう発せられ、文次郎ははっとして頭を振る。いつの間にかじっと見つめてしまっていたようだ。

「いや、手伝ってくれて助かった」

自分の行動を誤魔化すように小さくそう伝えると、澄姫は目を丸く開き驚いた顔をする。

「珍しい、やけに素直じゃない?」

からかうようにそういうと、彼女はくすくすと笑う。
その笑顔は普段女王や猛獣使いなんて囁かれている彼女からは想像も出来ない程柔らかいものだった。
いつもは仙蔵と容赦ない嫌がらせを仕掛けてくる彼女だが、案外優しいところもあるのかもしれない。そんなことを思い文次郎は深く息を吐いた。

「疲れたの?」

それを溜息と捉えたらしい澄姫が文次郎にそう問いかけると、タイミングが良いのか悪いのか、彼の背中がゴキ、と鳴った。
静かな部屋に案外大きな音で鳴り響いたそれに文次郎は顔を顰めた。
しかしそんなことを気にするでもなく、澄姫は笑顔のまま立ち上がり彼の肩にそのきれいな手を乗せる。

「背中と肩を揉んであげるわ、横になりなさい」

不気味なくらい優しい友人の申し出に、最初は遠慮した文次郎だが、結局強引に床に寝かされた。

「痛かったらちゃんと言いなさいよ」

どこまでも偉そうな澄姫だが、その力加減は意外に上手く、文次郎は思わず声を漏らした。

「お、おお?」


始めの内はバキボキと凄い音が鳴っていたが、しばらくするとそんな音も出なくなり、ただひたすら強張った体が解されていくのがわかった。
血行も良くなり、じんわりと温かみを帯びてくる体に文次郎は気分が良くなり、ぽん、と最後に肩を叩かれたのを最後にむくりと起き上がった。

「おおー、肩が軽い…体がぽかぽかしてる…」

ぐるぐると腕を回し、上機嫌にそう言うとニコニコした澄姫と目が合った。
その素敵過ぎる笑顔に、彼の中で積み重なった経験故の警鐘が頭に響き始める。

「私もやってよ」

なんだ、そんなことか、と文次郎は安堵の溜息を吐く。
てっきりさっきのお返しに法外な物を強請られたり、命を削るような悪戯を命令されたり、一月くらいずっと扱き使われたりされるのかと慌てたが、どうやら杞憂に終わったようだ。

「おう、構わんぞ」

先程の自分のように横になれと促す文次郎。だが澄姫はそんな彼に対して、見えないようにニタリと笑みを浮かべた。


ほんの一瞬のことだった。
文次郎は彼女の優しさに油断してしまっていたのだろう。
細身の澄姫から想像も出来ないようなものすごい力で、文次郎は腕を引かれた。
それと同時に足払いをかけられ、ぐるりと視界が回る。
驚いた彼が慌てて受身を取ろうとすると、それを予想していた澄姫がさせまいと文次郎の袂を引っ張る。
突然何を、そう思った文次郎が視線を上げて睨むと、ぞっとする笑顔の澄姫がそこに居た。

次の瞬間どしぃん、と大きな音を立てて2人は縺れるようにして床に倒れる。

間髪居れず文次郎が上体を起こし、澄姫に掴みかかる。

「てめぇ、いきなり何しやがる!!」

噛みつかんばかりの勢いで捲し立てる文次郎を澄姫はしらっとした顔で見ると、次の瞬間彼女は絹を裂くような悲鳴を上げた。


「、な…」

んなんだいきなり。そう続けようとした文次郎は気配を感じ廊下を見やった。
そこには驚いた顔の仙蔵と、何故か小平太と、その小平太に引き摺られるような体勢の食満留三郎がいた。


固まる文次郎と呆然としている小平太、留三郎そっちのけに、仙蔵は澄姫に駆け寄った。

「どうした澄姫、大丈夫か!?」

「仙蔵…文次郎が、文次郎がいきなり…私を押し倒して…!!」

そう震えながら仙蔵に訴える澄姫の着衣は確かに少し乱れており、よくよく見れば文次郎もどことなく血色が良い。
勿論さっきのマッサージの効果なのだが、何も知らない者がこの場を見るとまるで

「文次郎!!澄姫を襲ったのか?どうだった!?」



…と、見えるのである。

暴君の演技か本気かわからないその言葉を皮切りに、呆然と引き摺られていた留三郎が文次郎を指差し真っ赤になって叫ぶ。

「てめ、いっ、何してんだよ!!」

「ばっ、俺は何もしてねぇよ!!」

そして、毎度のように取っ組み合いの喧嘩を始める留三郎と文次郎を尻目に、仙蔵と澄姫はニタリと笑う。


そんな2人を置いて、取っ組み合い中の文次郎にどうだったかとしつこく聞き続ける小平太のあまりにも大きな声は静かな夜に大変よく響き、この騒ぎは翌日忍術学園中の噂になり、文次郎はあの魔王と魔女に嵌められたことを悟るのだが、既に後の祭りであった。

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