幸せな忍務

「いってらっしゃいあなた、お気をつけて」

ふんわりと微笑んで、小さく頷いて出かけていく夫の背中にいつまでも手を振り続けている美しい妻。
彼女は夫の背中が見えなくなると、その手を少しだけ寂しそうに下げて、ふと視線をずらす。
その先には赤いサングラスを掛けた男たち。ぎくりと一瞬肩を震わせたが、小首を傾げて会釈をした彼女に見惚れ、でれりと表情を溶かす。

「あら、おはようございます。これからお仕事ですか?」

「え、ええ、まあ…」

とろりとした甘い声で問い掛けられ、男たちはでれでれとしながらも言葉を濁した。彼らの返答を聞いた彼女は一度だけ涼しげな瞳をぱちりと瞬かせると、頑張ってくださいね、と笑った。

「「「頑張ります!!」」」

家の中に消えて行く彼女の背に向けて声を揃えてそう言った赤いサングラスの男たちは、朝からいいことあったなと上機嫌に、遠目に見える竹やぶのほうへと歩いていった。



「……あんな調子でよく城仕えできるものね」

扉に明けた小さな穴から男たちの様子を伺っていた彼女…忍務により一般家庭の妻を装っている平澄姫は、小さく吐き捨てて肩にかかるさらりとした髪を払った。

「竹林、ということはやはり戦の準備かしら…でも以前も確か竹を集めて戦をするのかと思いきやバーベキュー大会だったこともあったわよね…」

過去の出来事を思い浮かべて眉間に皺を寄せた彼女は、もう少し情報を集めないと結論は出せないわね、とひとりごちて、洗濯をするために裏庭に出た。

学園長の命により不審な動きをしている(らしい)ドクタケ忍者隊を見張り始めて三日目。
昼は夫役の長次が仕事にいくふりをして行動を見張り、夜は澄姫が闇に紛れて不穏な動きがないかを見張る。
正直そこまでする相手かと疑問に思ったりするのだが、不謹慎なことはするなと学園長に釘を刺された(と勘違いしている)2人は、なるべくそういった空気にならないようにと考え、上記の役割分担を決めた。
いろはの再来を心待ちにしているくのたまの後輩たちには申し訳ないと思いながらも、まだ十五、しかも学生の身分でそんなことになったらやはりいけないわよね、と自分自身を律し、冬の冷たい水に身を震わせながらも、澄姫は献身的な妻を演じ続けた。


そんな日が一日、また一日と過ぎて、忍務についてから九日目の夜。

「…やっぱり、どう考えてもこれは」

「……新年会の、準備…」

「よねぇ…」

ドクタケ忍者隊の動きを観察した結果、最初のうちは竹、炭、火薬とそれらしいものが揃い、そのうち鎧、馬とますます戦の準備らしきものが集まってきた…かと思いきや、その後は魚、肉、酒、米などの食物となり、火薬は宴会の花火用、馬と鎧はゲームの景品ということが発覚し、長次と澄姫はやはりかと頭を抱えた。

「ああもう、どうせこんなことだろうとは思っていたけれどね!!どうして学園一優秀なこの私が十日も掛けてこんなくだらない調査をしなきゃいけないのよ!!」

そう低く唸り、ギリギリと歯軋りする澄姫。そんな彼女に向かって、長次はこてりと首を傾げた。

「……嫌、だったのか…?」

「長次だってそう思うでしょう!?こんな調査だったら4年生でも事足り」

「……私は、嬉しかった…」

怒り狂う彼女の言葉を遮って、俯きがちにもそもそと呟く彼の耳は、ほんのりと赤く染まっている。

「…忍務とはいえ…澄姫と夫婦の、ふりができて…」

「ちょ、長次…」

俯いたまま恥ずかしそうに目だけで微笑む長次の姿を見て、先程までの怒りはどこへやら。きゅんきゅんと高鳴る胸を押さえながら澄姫はもじもじと、それは、そこは、私もだけれど…と蚊の鳴くような声で呟く。
そんな彼女の赤くなった頬に、無骨な手が添えられた。
彼女がびくりと肩を撥ねさせて顔を上げると、微かな灯りに照らされた愛しい愛しい人の姿。

「……学園長先生には、釘を刺されたが…」

夜の静寂にすら掻き消されそうな小さな声で、長次は珍しくその無感情な瞳に欲を滲ませて彼女を見つめている。

「…どうにも我慢…できそうに、ない…」

すまない、と形だけの謝罪を口にし、どさりと床に倒された澄姫。
胸から今にも溢れそうな幸福を噛み締めながら、熱に浮かされはじめた彼女は頭の隅で、結局こうなるなら始めから我慢なんてせずに後輩から貰った“餞別”で誘惑すればよかったかしら、とちょぴっとだけ後悔した。



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翌朝、鳥のさえずりで目を覚ました澄姫は、隣で横になりながらもしっかり目を覚ましていた長次を見て、恥ずかしそうに布団に顔を埋めた。
若干痛む喉を震わせて小さくおはよう、と告げると、彼からも同じように小さな声でおはよう、と返ってきた。
それが何だか照れくさくて嬉しくて、澄姫はごそごそと身じろぎし長次の胸に抱きつき顔を埋める。
何度体を重ねても変わらない、初々しく可愛い彼女の行動に、長次の頬が緩んだ。

きっと本当に夫婦になっても、彼女のこの行動は変わらないだろうなと1人頷く長次は、彼女と共に歩いていく未来を信じて疑わなかった。



−−−この時までは。


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