舐犢之愛
水面下で『いろはがいなくなる(かもしれない)』という情報は学園中に広まったようで、翌日からいろはの周りには、つねに誰かしらがいるような状態になった。
何も知らないいろはは喜んでいるが、周囲は微妙な心境なのだろう。時たまふと、悲しそうな顔をする者もいる。
澄姫は運動場の隅にある木の下に腰を下ろし、ユキちゃんからいろはへと譲ってもらった着物を一着、許可を得た上でほどき、はさみを入れ、ちくちくと縫い合わせる。
その合間、元気よくボールを追いかけるいろはと、一緒に楽しそうに遊ぶ1年生、2年生、3年生の大所帯を眺める。
「孫兵も、たまには皆と元気に遊べばいいのに」
笑みを零してそう呟いて、また目線を手元に戻す。一針一針、ゆっくりと、丁寧に、これから強く生きなくてはいけない娘のために、精一杯の愛を込めて。
たまに大きな声でかあさま、と呼ばれては、視線を上げて手を振る。
浅葱、青、萌黄に囲まれきゃいきゃいと駆け回るいろはを眺めていると、ふと嫌な予感がしたので、澄姫は持っていた縫い針を自身の胸元に向かい振り下ろした。
「痛い」
「なら早くその手を引っ込めてください」
突如聞こえた低い声と、微かな気配。それに冷たい視線を向けて、澄姫は縫い針をぐいぐいと押す。
「あいたたた、ちょ、本当に痛い」
先程よりもほんの少し感情を滲ませた声を上げて、彼女の胸元近くの手は引っ込んだ。代わりに、黒装束の大男が顔を出す。
「よくわかったね。忍の勘?」
「いいえ、女の勘です。その節はどうもありがとうございました。だっとほんまもんさん」
「いやいや、私の名前は雑渡昆奈門だからね」
「知ってます。わざとです」
そんなやりとりをしながら、澄姫は冷たい声で今日は何の用ですか、と問い掛けた。それに対して今日はいつも以上につれないね、なんて軽口を叩きつつも、昆奈門は珍しく困ったように笑った。……といっても、少し目じりが下がったくらいしか見えないが。
「いやー、先日はどうも盛大な勘違いが起こったらしくて、その謝罪に来たんだ。ついでに、いろはちゃんがいなくなるかもって話を聞いてね、顔見に来たの」
それを聞いて、タソガレドキの諜報力の恐ろしさを感じつつ、先のいろは誘拐事件を思い出し、澄姫はぐしゃりと前髪を握った。
「えーえーそれはもうとんでもない恥をかきました。まあ、勘違いしたのはこちらなので謝罪は結構です」
「うん、部下から聞いたよ。またえげつない事したんだってね」
くつくつと喉の奥で笑う昆奈門に、彼女のイライラが募っていく。まったく誰の所為であんな、と文句を言ってやろうとしたその時、可愛い足音が聞こえたので慌てて言葉を飲み込んだ。
「おじちゃー!!ばぁー!!」
「うわーびっくりしたぁー」
完全に棒読みの台詞にこめかみをひくつかせる澄姫。そんな彼女の心情はいざ知らず、無邪気ないろはは昆奈門の背中にぽんとしがみついて楽しそうに笑っている。
「おじちゃ、あそびきたの?」
そう問い掛けながらうごうごと大きな背中にしがみついて遊ぶいろはの脇に手を入れ、ひょいと正面に移動させる。
きゃはー、と嬉しい悲鳴を上げたいろはをじっと見て、昆奈門は包帯から覗く右目を細めた。
「……いろはちゃん。君は強い子だ。いいかい、辛くても悲しくても、ちゃんと最後は笑える、そんな人におなりよ」
低く優しく、言い聞かせるように、昆奈門は告げる。
きょとりとしたいろはも、なにかしらの感情を読み取ったのだろう。こくりと小さく頷いた。
「お利口さんだ。よーし、おじちゃん張り切って遊んじゃうぞー」
そんないろはの態度に満足したのか、昆奈門はいろはを降ろし、珍しく大きな動作で腕を振ると、いろはを肩車して走り出す。
その高さと速さに大はしゃぎのいろはだが、突然迫りくる黒尽くめの大男に青と萌黄は大混乱。最下級生にしてある意味一番肝が据わっている浅葱だけは、いろはと一緒に大喜びで騒ぎ出した。
「あーあー、はしゃいじゃって。うふふ…いつもいつもご苦労様です」
一気に騒がしくなった運動場を見つめながら、木の上に向かってそう呟くと、黒装束が音もなく降りてきた。
「本当はまだ仕事が山ほど残ってるのに…ま、今回はちょっとだけ、目を瞑りましょう」
そう言って黒装束…タソガレドキ忍軍の諸泉尊奈門は、口元を覆っていた布を下げて、恥ずかしそうに笑って見せた。
尊奈門の発言通り“ちょっとだけ”目を瞑ってもらった昆奈門は、そのあと文句を垂れつつ首根っこを引っ掴まれて帰っていった。
去り際、小さく振られた2つの手に気付いたいろはが大きな声で『またねー』と叫んで、学園のサイドワインダーが起動してしまったが、まあよしとしよう。
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