体調不良

(※ちょっとだけ嘔吐表現注意)


夜明け前、まだ暗い室内。
寒さにぶるりと身を震わせて、隣で寝ているいろはを起こさないように布団から抜け出る。
自分の体ひとつがぎりぎり通るくらいに扉を開けて縁側に出ると、夜の闇をぼんやり照らすものが目に入り、思わず白い息を吐き出して小さく笑った。

「朝起きたら、いろはが大喜びね」

視線の先には、空からちらちらと舞い降りてくる、雪。
きっと夜が明ける頃にはうっすらと積もるだろう、と思いながら、床から伝わる寒気に足踏みし、音を立てないように澄姫は部屋に戻った。

数刻後、くしくしと目を擦りながら身じろぎするいろはにおはようと声を掛け、寝惚け眼で擦り寄ってくるのを抱き締めながら、体を起こす。
いろはが寒くないように布団でくるみながら扉を開けてやると、まだまだ眠そうだったいろはの目がぱちりと開いた。

「かあさま!!おそと、まっしろ!!」

嬉しそうにはしゃぎながらそう言ういろはに頷き、夜のうちに積もったのよ、と教えてやると、いろははじたばたと彼女の腕の中で暴れ、早く着替えさせてくれと言わんばかりに元気よく腕をつきあげた。
その仕草が可愛らしくて、微笑みながらいつもの小さい桃色の装束を着せてやり、その上から半纏を羽織らせる。
ちょっともこもこになってしまったが、まあいいだろうと一人納得して、はしゃぐいろはに急かされながら自身も着替えを済ませ、部屋を出た。
部屋に面する庭には、既に一羽の雪うさぎが鎮座しており、こっそりと気配を消してやってきた後輩がいろはのために作っていったのかしら、と微笑ましくなる。
案の定その雪うさぎを見つけたいろはが嬉しそうにうさぎ、うさぎと跳ね回るのを見て、どっちがうさぎやら、と思わず笑いが零れてしまう。

「かーいーねぇー!!」

「そうね、可愛いわね」

「うさぎさ…へぷちゅん!!」

雪の中で手を上げてくるくると回って遊んでいたいろはが言葉の途中でくしゃみをし、澄姫は慌てていろはを抱き上げる。
その体は彼女の想像以上に冷えており、たらり、と鼻水まで垂らしたいろはの頬は、気付けば真っ赤になっていた。

「いやだ、冷えすぎちゃったかしら!?大変!!」

その後もくしゃみを連発しだしたいろはを抱き締め、澄姫は大慌てで医務室に駆け込んだ。




慌しく医務室に駆け込んできた彼女を見て、校医の新野先生は少し驚いたようだが、いつものように穏やかににっこりと微笑んで、どうしましたか?と優しく問い掛けた。

「あの、いろはが、雪で遊んでいて、冷えて、くしゃみが…!!」

「おやおや、大丈夫ですから落ち着いて。まずは火鉢のそばに」

そう促され、いろはを抱いて火鉢の前に座る。するとすぐに新野先生がいろはの額に手を当てて、おやおや、と笑った。

「ここのところ寒い日が続きましたからね。いろはちゃん、あーん、してごらん」

新野先生に促されるまま、あー、と大きく口を開けたいろはの喉を見て、新野先生は風邪の引きはじめですねえ、と呟いた。
それを聞いてさっと青くなったのは、いろはではなく澄姫。
ずっと面倒を見てきたのに風邪を引かせてしまった、とでも思ったのだろう。すっかり大人しくなったいろはを抱き締めてごめんね、ごめんねと繰り返し呟く彼女を見て、新野先生はくすくすと笑う。

「平さん、大袈裟ですよ。子供は外で遊んで体の免疫力を上げていくのですから、そんなに心配しなくても大丈夫です。とりあえず、今日は普段通りに過ごしていただいて、もし熱が上がってきたら、また医務室に連れてきてあげてください」

「は、はい…」

「いろはちゃんも、あついなと思ったら、ちゃんとお母様に言うんですよ?」

「はぁーい」

新野先生の言葉にちゃんと返事をしたいろは。子供の体調は変わりやすいのでしっかり見ていてくださいね、とだけ注意をされ、澄姫は医務室を出た。
と同時にくぅぅ、と可愛らしい音で朝食を催促し出したいろはの腹を撫で、とりあえず大丈夫だと自分に言い聞かせ、食堂に向かった。



「よー、今日は遅かったな?」

いつものように食堂ではいろはの食事の準備をした留三郎たちが既に待っており、澄姫の姿を見つけると片手を挙げて声を掛けてきた。
自分の食事を先に受け取った彼女がいろはを抱えて席に着き、今日の食事当番らしい留三郎がいろはの食事を持ってくる。そして、彼女からいろはを抱き上げようとしたその時。

「ぃやぁー!!」

「ど、どうしたいろは?今日は俺と飯食おうぜ?」

「いやっ、いっちゃんかあさま!!かあさまとたべるの!!」

そう大きな声で駄々をこね始め、しっかりと澄姫の装束を握り締める。
普段ならにこにこと自ら食事当番の膝に乗るはずのいろはの、思い掛けない駄々っ子に、留三郎はおろおろとうろたえている。
その様子を見て少しだけ驚いた顔をしていた長次だったが、ふとその手を伸ばし、いろはの額に触れた。

「……風邪、か…?」

「…そうなの。さっき新野先生に見ていただいて、暫く様子見てって」

こてりと首を傾げた長次と、悲しそうな澄姫。そしてそんな彼女の装束を掴んで離さないいろは。泣きそうになっている留三郎を押しのけ、伊作が心配そうにいろはの顔を覗き込む。

「熱が上がる前なのかもしれないね。ここのところ寒かったし、ちょっとしんどいのかな?」

「かも知れないわ。あんまり駄々こねる子じゃないし…とりあえず、食べられるものだけは食べさせておかないと」

そう言って留三郎の隣に座り、いろはの食事、おばちゃん特製お子様ランチのご飯を匙で掬い、いろはの口元に持っていく。
しかしいろははぷいと顔を逸らす。

「いろは、ご飯食べましょ?母様があーんしてあげるから」

「やっ!!」

「じゃあ留三郎にあーんしてもらう?それとも仙蔵がいい?文次郎にする?」

「やっ!!」

さり気ない拒絶に留三郎と仙蔵、文次郎が凹んでいる中、彼女の持つ匙が取り上げられた。
次の瞬間、どすりと彼女の隣に腰掛けたのは、にこにこと笑う小平太。

「じゃあ私があーんしてやろう!!なっ、いろは」

「やっ!!」

「……………ぐすん…」

しかし面と向かって拒絶され、なんと泣き出す暴君。
そんな爆笑ものの光景にも拘らず、食堂に居合わせた生徒たちはそんなに具合が悪いのかと心配そうな表情で見守っている。

「……いろは、父様が、あーんしてやろう…」

そんな中、小さな声でそう言ったのは長次。彼は小平太から匙を受け取り、澄姫ごと包み込むようにいろはを抱き締め、口元に匙を運んだ。
すると、今までいやいやだったいろはが、ぐしゅりと鼻を啜りながらも小さく口を開いた。
それに安心した長次と澄姫は、いろはが食べやすいものを選び、ゆっくりと口に運んでいく。

「…無理せず、ゆっくり…食べなさい…」

「よく噛んでね」

両親に囲まれてやっと落ち着いたのか、もぐもぐと少量ずつではあるがやっとご飯を食べ始めたいろは。
それに安堵した生徒たちだったが

「ぅ…けほっ…うぇぇ…」

突然響いた、いろはの咳き込む声。
数回咳き込んだあと、食べたものを戻してしまったようで、澄姫は慌てていろはの背を擦る。
長次も装束が汚れるもの厭わずしっかりといろはを抱きかかえ、伊作に促されるまま医務室へと駆け出した。
騒然とする食堂。だが、苦言を零すものは誰1人としておらず、寧ろ率先して片付けに名乗りを上げるほど。
仙蔵が青褪める澄姫を促し医務室へと連れて行き、文次郎は小平太と片付け。留三郎は食堂のおばちゃんに謝りつつ理由を話し、手が空いた生徒たちも片付けを手伝ったり、留三郎と一緒におばちゃんに謝っていた。

「あらまあ、風邪?大丈夫かしらいろはちゃん、おかゆとかのほうが良かったかしら?それとも栄養のつく流動食に戻したほうがいいかしら?」

「すみません。もしよければ、そのお子様ランチ、細かく潰して食べやすくしてやってくれませんか?」

「そうね、そうしようかしら。油ものや味が濃いものはやめたほうがいいわよね」

食堂のおばちゃんも心配そうに、こうしよう、ああしようと忙しなく動き始めた。
それを呆然と眺めながら、お残ししたのに叱られねぇいろは凄ぇ、と呟いた八左ヱ門の足を、三郎が蹴り上げた。

「いてぇ!!」

「そう言う問題じゃないだろう。だからお前はハチなんだ」

「ちがっ、そんなつもりじゃ…」

「いろはちゃん、大丈夫かな?」

「後でお見舞いに行こうよ」

「勘ちゃんに賛成」

心配げに呟く雷蔵に、勘右衛門がお見舞いを提案し、兵助が同意する。
似たような会話が全学年で行われていたのは、もう言うまでもないだろう。


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