誘拐事件

その日は、朝からずっと雨が降りそうな、そんな天気だった。

くしくしと小さな手で目を擦りながらも機嫌よく起床したいろはを着替えさせ、食堂でおばちゃん特製のお子様ランチに大喜びの姿に居合わせた生徒たちが頬を緩ませ、いつものメンバーで(いろは争奪戦を繰り広げながらも)朝食を済ませ、普段通り吉野先生にいろはを預け、午前の座学を受けるため教室に向かった澄姫。
平和そのものの風景。
しかしそれは、あっという間に崩れ去ってしまう。

真面目に6年い組の教室で先生の話を聞いていると、突然窓に面した運動場のほうからいろはの泣き声が彼女の耳に飛び込んだ。

先生も学友たちも一瞬びくりと窓のほうを向いたが、その顔はすぐ苦笑いに変わる。

「なんだ、また吉野先生が小松田さんを叱ったのに驚いたのか?」

隣の席で忍たまの友に視線を落としていた文次郎も、彼らの心情を苦笑しながら口にした。
文次郎の隣に座っていた仙蔵も、彼の言葉を聞いてくすくすと笑う。
最初は似たような苦笑を浮かべた澄姫だったがしかし、その胸になんだか得体の知れない不安が突如湧き上がった。
なんといえばいいのか彼女にはわからないが、心の中のもう1人の彼女が大きな声で否定する。
違う、今のは違う。いろはの驚いた時の泣き声はあんな声ではない。
今の声は、もっと、そう、怯えたような、嫌がるような…
ざわざわと広がる胸騒ぎに何とも言えない不安を感じた澄姫が先生に許可を取り様子を見に行かせてもらおうと立ち上がったその時、い組の教室の扉ががらりと開いた。
教室に居た誰もが一斉に視線を向けると、そこには普段とは違い少し焦ったような顔をした長次が立っていた。

「長次?」

「…澄姫、聞こえたか?」

彼の言葉が何を指すのか咄嗟に理解し、彼女が頷くと、長次は大股でい組の教室に入り、彼女の腕を掴んでぐいと立たせた。

「ど、どうしたの?」

「…今のは、何かおかしい」
 
小さな声で呟かれたその言葉に、澄姫は弾かれたように彼の顔を見た。

「先生ごめんなさい、ちょっと様子を見てきます!!」

澄姫は長次に腕をつかまれたままそう言うと、返事も聞かないまま教室を飛び出し声の聞こえた運動場を目指して全力で走った。
にわかにざわめき出してしまった生徒たちに落ち着くように声を掛けた先生は、唖然としている仙蔵と文次郎に後を追うように指示を出し、残りの生徒に自習を言い渡して学園長室へと向かった。





澄姫と長次が運動場に駆けつけると、そこにはきょろきょろとまるで何かを探しているような小松田さんが1人、佇んでいた。

「小松田さん?」

「え?ああ、澄姫ちゃん。あれ?まだ授業中じゃないの?」

「いろはの泣き声が聞こえたものだから気になって様子を見に来ました」

訝しげに声を掛けると、小松田さんは振り返って首を傾げた。あまりにも普段通りのその姿に、一瞬だけホッとし運動場に来た理由を告げると、小松田さんの眉が下がった。

「そうなんだ、いろはちゃんは吉野先生と一緒に運動場にいたはずなんだけど、さっきから姿が見えないんだよね」

「…え……?」

「それにさっき来た人、学園から出て行っちゃったみたいだから僕、追いかけてここまできたんだけど…」

そう言って、また困ったようにきょろきょろと周囲を見渡す。
長次が、ぎゅっと彼女の腕を掴む力を強めた。

「…ちょっ、と…待って…?」

目の前に広がる光景を、脳が理解しない。
まるでうわごとのように彼女の唇から零れ落ちた言葉。それを聞いた長次の瞳孔が、ぎゅっと縮まる。
次の瞬間彼は澄姫の腕を離し、風のような速さで学園を飛び出した。
咄嗟に後を追おうとした小松田さんだったが、彼の袖を、澄姫が弱々しい力で引っ張る。

「小松田さん、いくつか聞いてもいいですか?」

「でも、出門表…」

「お願いします、すぐ終わりますから。いろはは、今日吉野先生が面倒を見てくださっていたんですか?」

「え?そうだよ、今日はこれといって事務仕事がないから、運動場で野草観察するって言ってたよ」

「と言うことは、朝預けてから運動場にすぐ来たわけですよね?」

「うん」

「それでは別の質問です。小松田さん、誰かが学園に入ったんですか?」

「あ、そうそう!!さっきね。でも出て行ったみたいだから僕、出門表にサイン貰おうと思って追いかけてきたんだ」

「その気配は、運動場に?」

「うん、確かにこっちのほうだよ」

のほほんと、暢気に澄姫の質問に答える小松田さん。
そんな彼の様子とは正反対に、彼女の顔はさっと青くなった。ぐるぐると彼女の頭を巡るのは、いつかタソガレドキの組頭が言っていた言葉。

“神の咆哮と共に現れる天女は、数多の富をもたらす”
“『まだ』ドクササコは、この子の情報を手に入れていない”

がくがくと震え出した膝を抱えるように突然しゃがみこんだ彼女に、小松田さんが焦ったように大丈夫かと問い掛けるが、ガチガチと歯の根が合わない彼女は返事が出来ない。
駆けつけてきた文次郎と仙蔵も、尋常ではない焦り方の澄姫の姿に事の重大さを感じとる。

「まさか…おい澄姫!!」

「…もし、もしも、どこかの城にこの話が漏れていたとしたら…」

「強欲な城主は、欲しがるかもしれんな…」

薄い肩を掴んでがくがくと揺する文次郎の腕に爪を立て、血の気が失せてしまった真っ白な顔で彼女が小さく呟く。
その呟きに、仙蔵が眼光鋭くぼそりと返した。

その時、先程学園を飛び出して行った長次が慌てた表情を隠しもせずすたりと運動場に戻ってきた。

「いろはが、どこかの城の忍に連れて行かれた…!!」

彼の憔悴しきったその言葉に、最悪な予感が当たってしまったと3人はギリリと唇を噛んだ。

「追いかけましょう!!今すぐ!!」

「…落ち着け。今吉野先生が追っている。とにかく、学園長先生に報告を…」

そう口々に4人が話していると、全く話についていけない小松田さんがあのー、と控えめに声を掛けてきた。
そんな彼に、澄姫はハッとする。

「こっ、小松田さん!!」

「ハイ!?」

「さっき貴方『さっき来た人』って言ってませんでしたか!?その人、どんな人でした!?どこの城の忍かわかりませんか!?」

「えぇぇ!?そ、そんなこと言われても…プロの忍者って皆似た色の装束着てるし…」

「顔は!?特徴のある顔をしていませんでしたか!?」

「ふ、覆面してたし…わからないよぉ…!!」

鬼気迫る表情の澄姫の勢いにすっかり押された小松田さんは、すっかり怯えてちょっと涙目になってしまっている。少し落ち着かせようと彼女を止めようとした仙蔵が彼女に手を伸ばしたその時、小松田さんが抱える入門表が目に入り、盛大に噴き出してしまった。

「ブハッ!!こ、小松田さん、お手柄です!!」

「「「「え?」」」」

仙蔵の笑いを含んだ賞賛に、文次郎、小松田さん、長次、そして澄姫がきょとんと一斉に動きを止める。

「入門表にサイン、貰ってるじゃないですか!!」

そう言って仙蔵が指を差した先の入門表。
そこにはしっかりと、ひとつのサインが残されていた。

「え?これ?だって学園に入る人はサイン貰わないと…」

「小松田さん、今日になってから学園に入った人は?」

「え?今日はまだこの人だけだよ?」

ここまで話しても、まだ良くわかっていない様子の小松田さん。
そんな彼の腕から入門表を取り上げた澄姫は、はん、と鼻で笑った。

「凄腕って言うけれど、案外抜けてるのね」

冷たい瞳で入門表を睨みつける彼女の視線の先には、少しだけ癖のある字でしっかりと『ドクササコの凄腕忍者』と書いてあった。
その入門表を小松田さんに返した澄姫は、もうすっかり落ち着いている。
彼女は仙蔵と文次郎と視線を交わし、長次と顔を見合わせて頷いた。

「私たちの娘に手を出したことを」

「…後悔、するといい…」

そう呟き合った長次と澄姫の顔は、親の顔と言うよりも鬼の顔だった。


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