中在家長次の浮気

その事件は、いつもと変わらぬ平穏な日に起こった。

「せ、せ…説明しなさい、今すぐに…!!!」

現在、食堂。
青褪めた全校生徒の中心で、澄姫はいろはを抱いた長次の襟首を千切らんばかりに掴んで低く唸っていた。
すれ違う誰もが美しいと褒め称える美貌はなりを潜め、今はただその整った顔を怒りに歪ませている。

「…??」

が、反して長次は全く意味がわからないとばかりにきょとんと首を傾げ、いろはと顔を見合わせていた。

「そう、そう!!とぼける気なのね!!あーそう!!」

そんな彼の態度に怒り心頭の澄姫は、掴んでいた襟首の部分をさらにぐいと引っ張り、長次の目の前に突きつけた。

「ここのところにべったりついた紅は、一体どこの女と仲良くした時についたのかと聞いているのよ!!」

些か乱暴ではないかと思われる彼女の行動だが、誰も止めに入らない。否、そのあまりにも凄まじい形相に止めに入れない。
野次馬からぼそぼそと、あの中在家先輩が浮気?などの小さな声が聞こえてきたが、それすらももう耳に入っていない彼女は人一人くらい簡単に殺せそうな視線で長次を睨み続けている。
すると、ぽかんとしていた長次が、何かを思い出したかのようにゆっくりとひとつ頷いた。
すると、今まで怒りに染まっていた彼女の表情が一気に悲しそうに歪んだ。

「そう、心当たりが…あるのね……信じていたのに、あんまりよ…!!」

澄姫は悲しそうにそう呟いて、食堂から飛び出していった。
そんな彼女の後姿を呆然と見送っていた長次に、いろはが不思議そうに首を傾げてくいくいと小さな手で彼の装束を引っ張る。

「とうさま?かあさまどうしたの?」

「……ちょっと、な…」

事の成り行きを見守っていた野次馬たちがこりゃ一大事だと慌て出したが、何故か長次はいろはを抱いたまま普段の仏頂面を更に不機嫌そうに歪めていた。




ところ変わって飼育小屋。澄姫は一際可愛がっている栗と桃を抱き寄せて地面に寝転がり、流れていく雲を眺めていた。

「…信じられない。未来から来てるとはいえ子供だっているのに…あの長次が浮気するなんて……」

小さく呟いて、浮かんでくる涙をそのままに大きな溜息を吐く。すると、何かを感じ取っているのか、栗と桃が心配そうにぴすー、と鼻を鳴らして彼女の頬をべろりと舐めた。

「ふふ、ありがとう。大丈夫よ…お前たちは、優しいね…」

ほんのりと笑って、ごわつく毛に顔を埋めたその時、寝転んでいる彼女の頭上から控えめな声が聞こえた。

「澄姫先輩」

その声のしたほうへゆっくりと視線を向けると、そこには青空を延長させたような鮮やかな浅葱。井桁模様の装束を纏った少年が立っていた。
突然の来訪者に小さく唸る栗と桃を宥め、彼女は体を起こして悲しそうに少年を見た。

「珍しいわね、こんなところにくるなんて。何か用かしら、怪士丸」

ぽんぽん、と自分の座っている隣の地面を軽く叩き、怖くないからおいで、と怪士丸を促すと、彼はごくりと喉を鳴らし、おっかなびっくりと彼女に近付いた。
しかし、促された場所には腰を下ろさず、小さな手で澄姫の手を取り、ぐいと引っ張った。
突然のその行動に驚いて訝しげに怪士丸を見ると、彼はくすくすと笑っていた。

「ちょっと、どうしたの?急ぎの用事?」

「澄姫先輩、ぼく、さっき食堂にいました」

「………」

「そして、ぼくは図書委員です。だから、中在家先輩の浮気相手のことも知ってます」

「なんですって?」

「気になりますか?じゃあぼくが連れてってあげます」

言葉とは裏腹にどこか楽しそうな怪士丸。そんな彼をいぶかしみながら、それでも“浮気相手を知っている”という言葉に抗えない澄姫は、小さな手を振り解くことが出来ずにずるずると引き摺られていった。




「さぁ、つきましたよ。ここからそっと覗いてみてください」

そう促され、澄姫はぐるぐると不快な感情渦巻く胸を押さえて、怪士丸が指差した茂みをそっと覗き込んだ。

そこから見えるのは中庭の端の大きな木だった。
その根元では長次が珍しく寝転がって本を読んでおり、彼の腹の上には遊び疲れたのか色々なおもちゃを周囲に散乱させたいろはがすやすやと眠っていた。
その光景に、彼女の頭にまたかっと血が昇る。

「あンの男…!!浮気相手との逢瀬にいろはを連れて行くなんて…!!」

がりりと地面に爪を立て、まるで獣のように歯を剥き唸る澄姫。
山賊ですら裸足で逃げ出しそうな彼女の怒り様…だが、怪士丸は相変わらずくすくすと楽しそうに笑いながら、彼女の背中をぽふと叩いた。

「落ち着いてください、澄姫先輩。ほら、今のでもうばれてますから、いろはちゃんを起こさないように見てきたらどうですか?そうしたら、浮気相手がわかりますから」

「わかったわ。いろはを起こさないように殺ってくる」

宥められたものの、完全に目が据わっている澄姫は得意武器をがっと握り締めて一気に跳躍した。
彼女は長次の顔を跨ぐような体制で音もなく地面に着地し、得意武器の先についている分銅を彼の目の前に突きつけた。

「ぶっ!!」

しかしそんなシリアスな場面は、彼女の噴き出した声によって一転。
それも仕方ないこと。遠目からでは本に隠れてよくわからなかったが、何と長次の頬には小さな赤い手形がぺとりとついていたのだ。それもひとつではない。

「な、え?」

あまりのことにすっかりうろたえた澄姫がとりあえず拭ってやろうと思い懐から手拭を取り出すと、黙って本を読んでいた長次がふと顔を上げた。

「…いろはの、顔も見てみろ…」

小さな声で彼にそう促された澄姫が言われた通り体を捩っていろはの顔を見て、再度噴き出した。

「……かあさまと、いっしょ…だそうだ…」

優しい笑みと共に呟かれたその言葉で、澄姫の全身から力が抜ける。
呆然とした彼女が見つめる先には、いろは。しっかりと眠っているが、その顔…というよりも、小さな唇には目が覚めるような赤い紅がべったりと塗られている。

「……ふふ、うふふ、あっはははは、いやだ、私ったら馬鹿みたいね」

「…以前、お前が紅をひいているところを見たらしい…随分と欲しがって、見かねた山田先…伝子さんが、使っていないものをくれた…」

「そうだったの…そりゃ、こんな状態のこの子を抱けばつくわよね。もう、だったら早くそう言ってくれればよかったのに…」

すっかり誤解も解けて落ち着いた彼女にそう説明しながら、長次はおいでおいでと茂みに隠れていた怪士丸を呼んだ。
彼女も同じように、甲高い音でひとつ指笛を吹く。すると、どこからともなく地面を蹴る音が聞こえ、どさりと2つの影が降り立った。

「栗、桃。いろはを起こさないように」

「…栗、桃。怪士丸といろはを連れて不破雷蔵のところへ行け。…怪士丸、不破にいろはを風呂に入れるよう、頼んでくれるか?」

2つの影…栗と桃に、澄姫が指示を出していると、その声を遮って長次が低い声でしっかりと指示を出した。
きょとりとしている彼女をよそに、栗と桃が了解、とばかりにわおん、とひとつ吠え、栗は長次の腹に寝ているいろはをそっと銜え、桃は少し乱暴に怪士丸を背に乗せ、静かにその場を去った。
何故あの子達だけを先に帰させたのかと疑問に思っていると、彼女の手を大きな手が包み込んだ。
その手から奪われたのは、彼女の得意武器。
じゃらりと鎖が音を立てて地面に落ち、その音でやっと、彼女はびくりと肩を揺らした。

「…なかなか、いい光景だが…」

「ばっ、ばか!!」

長次のその言葉に、現状を思い出す。そう、彼女は長次の顔に跨るようにして武器を構えたままだった。
普段とは些か様子が違う長次の笑みに、彼女の背筋を悪寒が駆け抜ける。

「…勝手な勘違い…」

「うっ」

「…まぁ、気分は悪くない…」

「………」

「…だが、仕置きは必要だ…」

「やっぱり!!?ででで、でも、勘違いさせた長次にも責任があると思うのだけれど、その、私だって、傷付いたわけだし…だから、おあいこ…ってことじゃ…」

「だめだ」

「な、なんでよ!?それは少し横暴すぎやしないかしら!?大体あの紅だって貰ったならその時に教えてくれればこんなこ−−−んっ」

すっかり慌ててしまった澄姫が体勢そのままに長次と問答を続けていると、いい加減焦れたのか長次が急に彼女の太股に腕を回して体を起こした。
その反動で後ろへひっくり返った彼女に決して怪我をさせないようにしっかりと庇いながら、ぎゃあぎゃあと騒ぎ出した彼女の唇を塞ぐ。
普段よりも少しだけ乱暴に彼女の口腔を蹂躙し、ゆっくりと唇を離す頃には、すっかりと大人しくなった澄姫がくてりとしながら、それでも恨めしそうに長次を睨んでいた。

「……そんな蕩けた顔で睨まれても、怖くない…」

「だっ、誰の所為だと思って…!!って、ちょっ、どこ触っ…!!」

「もう黙れ」

「あん!!耳、は、だめェ…腰が、抜けちゃ…!!」

耳元で囁かれてすっかり骨抜きにされた澄姫は、長次にしっかりと抱えられて赤く染まり始めた太陽に滲んで溶けていった。





一方その頃、長次の指示で雷蔵のところに怪士丸といろはを運んだ栗と桃は、たまたま彼と共に居た竹谷八左ヱ門に遊んでもらっている途中、楽しすぎて訳がわからなくなり、偶然通りかかった善法寺伊作の尻に噛み付いたらしい。


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甘い話、ということで喧嘩をして絆を深める定番のお話を書いてみました。しかし最近長次がちょっとがっつき気味ですね…
花梨様、リクエストありがとうございました



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