失恋

自制できず漏れ出した自分の殺気に当てられたとはいえ、小平太とまともに手合わせなどできる筈もなく、澄姫はぼろぼろの体を引きずってくのいち長屋の自室へと戻った。
体のあちこちが悲鳴を上げているが、授業に差し支えはないだろう。
そして一日の授業を終えたところで、珍しく放課後長次に話があると呼び出されたのだ。
帰還してから、まともに話もしていない状態。この呼び出しに澄姫は嬉々として応じ、今現在校庭の隅の木の下で長次を待っていた。


(話って何かしら…忍務から戻ったから、久々の逢引の誘いだったりして…成績優秀な私への賛美の言葉かも…)


そんなことを考えながら、浮き足立つ心のままに考えをめぐらせていた澄姫の視界の隅に、深緑色の装束が飛び込んできた。


「…すまない…少し…待たせた…」

相変わらずの囁くような声に、澄姫は顔を綻ばせ首を振る。

「いいえ、大丈夫。私も今来たところだから」

彼の顔を見れただけでも、待っていた甲斐があるものだ。

「それで、話って何かしら?珍しいわよね、長次から話があるなんて呼び出してくれるのは」

嬉しくて堪らないといった笑顔で、澄姫は問いかける。
しかし、長次の表情はどことなく沈んでいた。

そして、今まで浮き足立っていた澄姫は彼の一言で崖から突き落とされるような衝撃を受けた。


「…澄姫、すまない。」


「…別れて、…くれ…」




え、と声を発する間もなく、深々と頭を下げる彼を呆然と見つめる澄姫。
彼の言葉をその優秀な頭は嫌でも理解してしまう。
真っ白になりたい心とは裏腹に、澄姫の利口な頭は自然に回転を続ける。


「理由を聞いても、いいかしら」

そんな彼女の震える声にその大きな肩を揺らし、彼は述べた。

「…澄姫では、ない…別の…女性を…好いてしまった…」


澄姫は今度こそ、頭を重たい石でガツンと殴られたような衝撃を受けた。
それでも思い浮かぶのは、今までずっと仲良く連れ添った記憶。
周りに美女と野獣なんて称されても気にしなかった。
ただ彼が、中在家長次という男が好きだった。
たった数日前の忍務に出る夜だって、わざわざ学園を抜け出して見送りに来てくれた。
待っているからと、照れながら言ってくれた。
それなのに、何故突然。


そこまで考え、とうとう澄姫の柔らかな頬を、一筋の涙が伝い落ちた。
力なく佇む澄姫を前に、長次はずっと頭を下げ続けていた。



その時、真っ白になっていた澄姫の耳に、ねっとりとした聞き覚えのない声が飛び込んだ。



「あっれぇ?長次くん?そんなとこで何してるの?」


じゃりじゃりと地面を踏み鳴らし、知らない女が駆けてくる。澄姫は流れる涙を拭いもせず、呆けたままその光景を見た。
すると今まで頭を下げ続けていた長次が、澄姫が今まで見ていた柔らかな表情でその女を見つめ、名を呼んだ。


「…心愛」


その声を聞いた途端、澄姫の頭は燃えるように熱くなる。
目の奥がズクズクと痛む。喉は締め付けられるように痛い。
それでも澄姫は顔を上げ、流れる涙をそのままに女の顔を見た。

「あ、ひょっとしてお邪魔だったかな?」

大して悪びれもせず、心愛と呼ばれた女は澄姫を一瞥し長次に笑いかけた。

「…いや…大丈夫、だ。話は…終わって、いる」

「そう?あのね、さっき小平太くんが長次くんを探してたよ?」

くりん、と可愛く首を傾けながら、心愛と呼ばれた…恐らく噂の天女であろう女は彼にそう告げる。
わかった、と小さく頷き、長次はもう澄姫を見ることなく校舎に消えていった。


ただただ現実感がないまま、その場に立ち竦む澄姫に、心愛は不躾な視線を投げ続ける。
そして、やめておけばいいものの自身の優越感に促されるまま口を開いた。




そう、心愛は浮かれていた。
目の前に立ちすくむ、とても綺麗な女の人。
でも彼女は泣いている。そして先程去っていった中在家長次を見つめる目は、縋る乙女のそれ。
おおよその見当は付く。

「…へぇ、貴女みたいな美人でも、振られるのね」

その一言にピクリと柳眉を動かし、不快感を露にしたまま澄姫は心愛をギロリと睨み付けた。
そんな視線にも気付かないまま、心愛は、ふふん、とさも嬉しそうに喋り続ける。

「でも長次くんに振られるとか、悪いけど笑っちゃう」



その一言に、澄姫の体から一気に血の気が引く。
今まで燃え上がりそうなほど熱くなっていた頭は、気を抜けば眩暈を起こしそうに冷えた。


笑っちゃうって何よ。

長次くん“に”ってどういうことよ。


そんな思いを宿した目で心愛を睨み付けると、彼女はわざとらしくこわぁい、なんて言ってくすくすと笑った。

「でもしょうがないよね、他に好きな人ができたんじゃぁねぇ」

一体誰なんだろうねぇ、なんてさも不思議そうに言いながら、くるりと踵を返し心愛も校舎へと去っていった。


一人残された澄姫は、わなわなと震える手を近くの木の幹に叩きつけ、その白魚のような指を血の気が失われるほど握り締めた。
その表情は、まったくの無表情。
まるで能面のようなその顔で、二人が去っていった校舎を見つめている。




(あぁ、そう)


(なるほど、わかったわ)




(宣戦布告、したのでしょう)




澄姫は再度流れ始める涙を拭いながら、ぎりりと歯を食いしばる。
自尊心や恋心、その全てに傷を付けてくれた天女様。
大切な恋仲を誘惑してくれたあの女には、自分と同じくらいの…いや、それ以上の屈辱を与えてやる。
そして、幻術だか薬だかの戒めを解き、長次を取り戻してみせる。

大きく深呼吸をして、澄姫は唸るように吐き捨てた。


「くのいちに…いいえ、この忍術学園一美しく気高く、成績優秀なくのいちである澄姫の大切なものに手を出した挙句、敵に回したことを、後悔するといいわ」


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