挨拶回り〜用具委員会〜

運動場の倉庫前では、きゃっきゃっとはしゃいでいる井桁と、井桁に囲まれている紫、そしてどことなく困惑している萌黄が待っていた。

「おーい、今帰ったぞー!!」

そんな5人に、まるで仕事から帰りましたと言うように留三郎が声を掛ける。
その声に反応して、紫を囲んでいた井桁たちがくるりと振り向き、満面の笑みで駆け寄ってきた。

「「「おかえりなさーい、お父ちゃん!!」」」

しかし、可愛い声で発せられたその言葉に、澄姫の膝から力が抜けた。

「と、留三郎!!貴方後輩に何て呼ばせてるのよ!!」

「別に呼ばせてるわけじゃねぇよ!!けどこいつらノリがいいから…」

何てことをさせているんだと驚いた彼女がそうきつく言うも、留三郎は満更でもない笑みを浮かべていろはを地面に下ろした。

「いろはもお父ちゃんって呼んでも良いんだぞ?」

「成程…それが狙いなのね…」

でれりと笑ってそういった留三郎に、思わず頭を抱える澄姫。
子供というのは、まわりの真似をする。小さいうちなら尚更、周りを見て同じことをやったり言ったりするもの。
それを知っているからこそ、留三郎は1年生たちに“お父ちゃん”などと馬鹿なことを言わせたのだろう。
真似しちゃだめよ、と彼女が制しようとしたら、いろははきょとんと首を傾げて留三郎を見て不思議そうに言った。

「ちやうよ?いっちゃんのとうさまは、とうさまなの。とめしゃんはね、とうさまちやうの」

「あ、うん、ですよね…」

純粋な眼差しで無邪気にぐさりと心を抉られた留三郎は悲しそうにそう頷くと、いろはに背を向けてさめざめと両手で顔を覆った。
その姿に澄姫が思わず噴き出すと、倉庫前から同じような声が聞こえた。

「作兵衛も大変ね」

「ぶふっ…えぇ、まぁ、でももう慣れました」

3つの井桁…1年は組の山村喜三太、福富しんべヱ、1年ろ組の下坂部平太と戯れ始めたいろはを見ながら澄姫が倉庫前に移動し、くすくすと笑っている何かと苦労性な3年ろ組の富松作兵衛の隣に立つ。
すると、いつの間にか立ち直った留三郎が、集合、と声を上げた。

「これから池に行って、アヒルさんボート乗るぞー!!」

その発言に思わず作兵衛を見ると、彼は苦笑しながら教えてくれた。

「修理したアヒルさんボートの最終確認を兼ねてますけど」




ぞろぞろと後輩を引き連れて、更に自身はいろはを抱えて大変ご満悦な留三郎に続いて澄姫が池に着くと、事前に準備してあったのか、それとも修理の後出しっぱなしにしていたのか定かではないが、アヒルさんボートが3台池の前に鎮座していた。
食事やなんやらで既にお馴染みになってしまったそのアヒルさんの船首飾りを見て、いろはは大はしゃぎ。

「よし、じゃあ1号には作兵衛と平太と喜三太、2号には守一郎としんべヱ、3号には俺といろはだ!!」

びっと指を立ててそう告げた留三郎の言葉で、元気良く井桁たちがアヒルさんボートを池に浮かべていく。そして順々に乗り込むと、出発、と元気良く手を上げ漕ぎ出した。
留三郎に抱かれてボートに乗り込んだいろはも、嬉しそうに岸辺に佇む澄姫に手を振っている。
小さく手を振り替えしながらも、なんとなーく嫌な予感が過ぎった彼女は懐に手拭いが入っているかをこっそり確認した。

ゆっくりと池を回って無事に戻ってきた1号。作兵衛が平太と喜三太の手を引いてボートから降ろした後、ゆっくりと岸に引き上げ、アヒルさんの首に“済”とかかれた札を掛けた。
そのすぐ後、2号も戻り、守一郎がふんぬぬと気合を入れてしんべヱをボートから降ろしてやり、作兵衛がボートを引き上げ、1号と同じ札を掛けた。
そして3号も、と岸に近付いてきたアヒルさんを彼女が見ていたら、バキリという音が聞こえた。その後にすぐ留三郎の、げ、という声が聞こえて、守一郎の顔がさっと青褪める。
ぶくぶくとゆっくり沈没していくアヒルさんボート3号。突然のことに驚く留三郎を見て、泣き始めてしまったいろは。
そんないろはが冬の冷たい池に落ちないように、留三郎ができる限り高くいろはを抱えて、既に半分ほど沈んでしまったボートからゆっくりと降り、じゃぶじゃぶと足を太股近くまで濡らしながら岸に上がった。

「うあああ!!ひぎっ、うあぁぁぁん!!こあいー!!!」

留三郎の頭上で身をちぢこませたいろはが、大泣きしながら澄姫にしがみ付く。それを苦笑いで見つめて謝る留三郎に、彼女は小さく笑って手拭いを差し出した。

「大丈夫?早く着替えないと冷えるわよ」

「だな…悪ぃ。先に着替えてくる」

そう言って、留三郎は沈んだ3号ボートを濡れたついでにと回収し、作兵衛に再修理の札をつけるよう指示すると、足早に6年長屋に戻った。
それを見送った彼女は、いまだびーびーと泣いてしっかりくっついているいろはをべりと引き剥がした。

「やー!!かーさまー!!こあい、こあいー!!」

「もう大丈夫よ、怖くない。それより、そんなにいろはが泣くと、彼が可哀想だわ」

そう言って、くるりといろはを抱え直す。
丁度いろはの視線の先に、青褪めた彼が映るように。

「…しゅいちろ、どうしたの?」

「さぁ?自分で聞いてきてごらんなさいな」

彼の…守一郎の憔悴しきった顔を見て、ぴたりと泣き止んだいろはは不思議そうに澄姫に問い掛けた。そんないろはを彼女は地面に下ろし、背中をぽんと押す。
とことこと歩きながら涙に濡れた頬をごしごしと擦り、守一郎の前に辿り着いたいろはは、彼のまだ新しい袴をくいくいと引いた。

「しゅいちろー、どうしたのー?」

ぐっと上を向いて心配そうに問い掛けるいろはに視線を合わせるようにしゃがみ、守一郎は小さくごめんな、と呟いた。

「ごめん、お前が乗ってたボート、おれが修理したんだ。でも、上手くできなかった。怖い思いさせて、ごめんな…」

その呟きを、戻ってきた留三郎が作兵衛と共に聞いて、口を開いたその時、彼の頭に小さな手が乗せられた。
ごわごわの彼の髪を、小さな手がぎこちなく撫でる。

「しゅいちろ、いーこいーこ」

その行為に、強張っていた守一郎の顔が緩んだ。

「…お前、優しいな」

「しゅいちろ、いっちゃんにいつもいーこいーこしてくれる。だから、いっちゃんも!!」

にぱ、と笑ってそういういろはに、守一郎もつられてにこりと笑う。それを見ていた留三郎が感極まったのか、がばりといろはを抱き上げた。

「いろはぁぁぁ!!可愛いぃぃぃ!!(お前は優しい子だな、えらいぞ)」

「落ち着いてください食満先輩、本音と建前が逆です。色々だだ漏れです。浜先輩も、用具委員会に入ったばかりなんですから、そんなに気にしないでください」

作兵衛の言葉に、でも、と言い淀んだ守一郎だが、ぽん、と肩を叩かれて顔を上げる。
そこにはいろはを抱えたままの留三郎が、にっと笑って立っていた。

「作兵衛の言う通りだ。誰にでも失敗はある。繰り返さないように気を付ければいいだけのことだ」

そう言われ、守一郎はしっかりと頷き、留三郎にぺこりと頭を下げてすみませんでした、と謝罪し、くるりと澄姫に向かって同じように頭を下げた。

「えーっと、滝夜叉丸のお姉さん!!娘さんに怖い思いをさせてしまって、すいませんでした!!」

真面目な彼の姿にくすりと笑い、彼女はいいのよ、と首を振った。

「怖い思いをするということは、危険回避の能力を身につけるということよ。これであの子は不用意に池に近付かないでしょう?」

澄姫がそう言うと、留三郎がスパルタ、と小さく呟き、勢い良く足を踏まれた。

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