職権乱用

午前の授業(だったのだろうか)を終え、昼食を済ませた6年生たちは、午後は授業がないという土井先生にいろはを預け、午後の座学を受けに教室へ向かった。

いろはの小さな手を握って職員室へ向かった土井先生は、文机から数枚の半紙を取り出すと、いくつか動物の絵を描いていろはに見せた。

「さぁ、これは何かわかるかな?」

「わんちゃ!!こっち、ぶーぶー!!どいせんせ、じょーずねー!!」

「おー、賢いなー。さすが沈黙の生き字引と自称忍術学園一優秀なくノ一の娘だ」

一気にご機嫌になったいろはを胡坐の上に乗せ、またさらさらと半紙に何かを書いていく。

「これは?まだ読み書きは早いと思うが、自分の名前は読めるか?」

「んー?んんー?これ、いー?」

「そうそう、いーろーはー。そういえば、どういう漢字を書くんだろうなぁ?」

にこにこと笑いながら、土井先生は半紙に大きく『いろは』と書いてやる。それを嬉しそうに見て、きゃっきゃとはしゃぐいろは。

「あのねー、いっちゃんねー、とおまでがぞえられるのー!!もんちゃんにね、しゅごいなってほめられたよー」

「お、十まで数えられるのか。それはすごいな。いろはは今幾つだ?」

「いっちゃんみっちゅー、おててはね、こうだってもんちゃんいってたー」

そういって、小さな指を三つ、土井先生に見せるようにぴっと立てる。にこにこと笑ういろはの頭を撫でてやりながら、賢い賢いと褒める土井先生の顔は、やっぱり緩みに緩みまくっていた。
色々な絵を描いてもらったいろはが指を差して遊んでいると、がらりと職員室の扉が開いて、土井先生はおや、と顔を上げた。

「利吉君じゃないか、山田先生なら今まだ授業中だよ」

穏やかな笑顔を向けてそういう土井先生だが、ひょっこりと顔を覗かせたまま利吉は硬直している。
不思議に思いもう一度利吉の名前を呼ぶと、彼は突然ぺこりと笑顔で頭を下げた。

「いやぁ、土井先生おめでとうございます!!お子さんが先でしたか!!知らなかったとはいえお祝いもなく申し訳ありません、それで、奥様はどちらに?あ、あの長屋ですか?」

その言葉に、土井先生は盛大にすっ転んだ。

利吉の誤解を解くために事のあらましを説明していると、授業の終わりを告げる鐘が鳴り、山田先生が食員室に戻ってきて驚いた顔をした。

「何だ利吉、来ていたのか?」

「えぇ、仕事のついでにちょっと顔を見せようと思いまして…なんだか面白いことになっているそうですね?」

座布団に腰を下ろして気が利くのか何なのかわからない息子に苦笑いを向けると、足に触れる何かに気がついた。
ふと視線を下げると、にこにこしたいろはが山田先生の膝をポコポコと叩いており、土井先生に描いて貰った動物の絵をひらひらと振っている。

「おーおー、なんだいろは、半助に遊んでもらっとったのか?」

「うん!!あのねー、こえねー、どいせんせじょーずなの!!」

「そうかそうか、これはなんだー?」

「こえねー、わんちゃ!!こっちねー、ぶーぶー!!」

「そうかそうかー、いろはは賢いなー」

絵を指差して色々教えてくれるいろはを抱えあげて、山田先生は目尻を下げて賢い賢いと手放しで褒める。どこかで見た光景である。

「…土井先生、アレは、一体誰でしょうか?」

「勿論君のお父上だよ、利吉君」

そんなでれっでれの父の姿を見て、利吉は笑いを堪えて土井先生にこそりと話しかけた。それを聞き咎め横目でじろりと息子を睨んだ山田先生だったが、まん丸に目を見開いていろはを利吉の横に掲げ見比べる。
宙ぶらりんのいろはが嫌がっていたので、仕方なく利吉が抱き上げると、きょとん、としたいろはが彼を見てにぱっ、と笑った。

「いろは、彼は利吉君。山田先生の息子さんだよ」

「いちちくん?」

「り・き・ち だよ。初めましていろはちゃん」

営業スマイルを浮かべて、間違いだらけの発音を正す利吉。にこにこと優しそうな利吉の風貌にすっかり安心したいろはは、きゃっきゃっと楽しそうに利吉に抱きついた。
それを見た山田先生が突然立ち上がり、職員室から飛び出していった。
それと入れ違いに、いろはを迎えに来た澄姫が職員室にひょこりと現れる。

「土井先生、どうもありがとうございました。あ、利吉さん、こんにちは」

「やぁ、澄姫ちゃん。娘が生まれたなら教えてくれればいいのに」

「その冗談は既に聞き飽きましたよ、利吉さん」

土井先生にお礼を言いつつも、利吉にそうからかわれた澄姫は、額に青筋を浮かべながらも綺麗に笑った。しかし目は笑っていない。

かあさまかあさまとはしゃぎながらも利吉にべったりくっついているいろはを澄姫が珍しがっていると、ばたーん、と職員室の扉が勢い良く開いた。
驚いてそちらを見ると、なんと満面の笑みの山田先生が小脇に1年は組の不運小僧、猪名寺乱太郎を抱えて立っていた。
そして、呆気に取られている彼女を見ると、丁度いい!!と益々嬉しそうに笑った。

「澄姫も来とったか!!よし、ちょっと利吉の隣に座りなさい!!」

そう言って、ぐいぐいと彼女の肩を押し、いろはを抱いた利吉の隣に並べられる。一体なんなんだと目を白黒させていると、山田先生は小脇に抱えていた乱太郎とぽいと床に下ろし、半紙と筆をぐいと持たせた。

「乱太郎、このわたしの夢を描いてくれ!!」

「は?え?ちょ、山田先生?いきなりなんなんですか?ゆ、夢?」

「この家族絵図だよ!!髪の色とか、よく似てるじゃないか!!」

現状が理解できない乱太郎が移動途中にずれた眼鏡を直しながら、担任教諭の変わりように驚いている。そんな乱太郎を、山田先生はパンと手を合わせて拝み、ちらと澄姫たちを見てぽわりと笑った。

「見てみなさい、本当に家族のようだ…利吉が仕事中毒でなかったら、わたしにこのくらいの孫がいてもおかしくないんだぞ?」

だばぁ、と涙を流しながら、頼む頼むと乱太郎を拝み倒す山田先生。すっかり困り果てた乱太郎がどうしようとでも言うように利吉たちを見ると、澄姫がくすりと呆れた顔で笑って言った。

「いいんじゃないの?描いてあげれば」

「え、でも、いいんですか?後で澄姫先輩が中在家先輩に怒られたりしませんか?」

「だって実際結婚するわけじゃないし、絵でしょう?長次はそこまで小さい男じゃないわ」

彼女の言葉を聞いて、それなら、と乱太郎はサラサラと半紙に利吉たちを描きだした。あっという間に完成したそれを、山田先生は大喜びで受け取り、利吉もまた満更ではない表情でついでだからと描いてもらい、それを大事そうに懐に入れて仕事があるからと学園を後にした。

「いちちしゃん、ばいばーい」

「皆いろはにメロメロねぇ」

面白いものを見たとばかりにくすくす笑いながらいろはを抱き、利吉を見送っている彼女の後ろで、こそりと土井先生が乱太郎を呼んだ。

「なんですか?」

「乱太郎、その、ついでだし、あの、私も…」

「…………」

「いいじゃないか、な?今度のテスト、ちょっとだけ点数割り増ししてやるから、な?な?」

「…土井先生、それ職権乱用ですよ…」

そういいつつも、乱太郎はきらりと眼鏡を光らせて笑った。

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