とうさま

仙蔵はいろはを抱いたまま、隣の部屋の扉を声も掛けずに開け放った。
部屋の中でゴロゴロ暇を持て余していた小平太が、いろはの姿を見つけて嬉しそうにやっと来たか、と体を起こした。

「こへちゃん!!あーそーぼー!!」

「おうっ!!」

仙蔵に下ろしてもらったいろはが嬉しそうに小平太に駆け寄り、ひょいと抱き上げてもらってきゃっきゃっとはしゃぐ。
しかし、部屋の中に見当たらない同室のことを澄姫が問い掛けると、ぶんぶんといろはを振り回しながらちらりと視線を彼女に向けた。

「厠行ってた。後ろにいるぞ」

そう言われて彼女が振り返ると、背後には少しだけ驚いた顔の長次が立っていた。
澄姫が説明しようと口を開こうとしたその瞬間、いろはの叫び声が聞こえて全員が小平太に何をやらかした、と鋭い視線を向けた。
しかし、小平太はしょんぼりと嫌われた…と呟いて項垂れており、当のいろはは猛ダッシュで長次の足に跳び付いて、キラキラとした瞳を長次に向けていた。

「あー!!とうさま!!とうさまー!!」

そして、満面の笑みのいろはが発した言葉で、長次は物凄く珍しいことに噴き出した。

にっぱぁぁ、と心底嬉しそうな笑顔で長次の足に纏わりつくいろはを、彼は何とも言えない微妙な表情で見下ろし、時折澄姫に視線を向けては無言の抗議を投げ掛けている。とても珍しいその姿に、彼女は必死に吊り上ってしまう口元を根性で押さえ込み、詳しく話すわ、といろはを抱き上げ長次たちの部屋へ足を踏み入れた。

とうさまとうさまと騒ぎ続けるいろはを膝の上に乗せた長次が、視線だけで詳しく話せ、と訴えかけてくる。
澄姫がいろはを見つけたいきさつを話すと、黙って聞いていた仙蔵が口元に手を当てて何かを考え込む仕草をしていた。

「仙蔵、何か気になることでもあるの?」

澄姫がそう問い掛けると、仙蔵がふとその視線を上げて口を開いた。

「いや…気になるというか、一種の迷信なんだが…雷が轟いて現れたといったな。そして、いろはは長次を父様、澄姫を母様と呼ぶ…ひょっとして、こいつは神隠しに遭ったのではないか?」

「「神隠し?」」

彼の言葉に、首を傾げた小平太と留三郎が鸚鵡返しのように呟く。
すると、いろはを見ていた伊作がぽん、と掌を打った。

「ああ、僕も聞いたことあるよ。雷は“神鳴り”ともいわれている、神様の声だって…最初はまだ小さいから本当の母様に似ているだけの澄姫を母様と呼んだのかとも思ったけど、食堂で小平太のことを僕らよりも早く“こへちゃん”と呼んだし…仙蔵の推測、あながち外れじゃないかもね」

のほほんとそう話した伊作の言葉を聞いて、留三郎が長次の膝の上に座るいろはの顔をまじまじと覗き込んだ。

「…言われてみりゃあ、似てるな…薄ら思ってたんだけどよ、こいつの髪は伊作や長次と同じ色だよな…」

「うーん、でも僕は癖っ毛だから、この直毛遺伝は明らかに長次だよね…それに、瞳。見覚えあると思ったら、1年生の頃の澄姫にそっくりだよ」

留三郎に続いて伊作までもがいろはをじっと見ながらここが似てるだの言い始めて、あっという間にいろはの周りに深緑の壁が出来上がった。
普通の子供ならば泣き叫びそうな状況だが、それに怯えることなく、いろははにこにこと楽しそうに両手をあげた。

「みんないっしょねー!!なかよしー!!」

まるで太陽のような笑顔に、留三郎と伊作と小平太、そして、驚くべきことに仙蔵と文次郎までもが蕩けそうな笑みを浮かべた。
いろはを膝に乗せている長次も、心なしか少し震えている。

「いやぁ!!いろはは可愛いな!!でかしたぞ長次!!澄姫!!」

「子供は総じて可愛いが、長次と澄姫の子だと思うと更に輪をかけて可愛いな!!」

小平太と留三郎が恐らく無意識のうちに発したその言葉を聞いて、長次と澄姫は恥ずかしそうに頬を染めて、ちらりと視線を交わした。
どうやら既に6年生の中では、いろはは完全に長次と澄姫の娘に決まったらしい。
見ているこっちが恥ずかしいほど骨抜きにされた彼らの姿に、彼女はぷっと吹き出した。

「お、恐ろしいほどにメロメロね…」

そんな彼女の呟きに、5人は口を揃えて当然だ、と笑った。



その後は誰がいろはと遊ぶかで揉めに揉め、留三郎と仙蔵はおもちゃやからくり、伊作と小平太はお菓子や食べ物で、必死にいろはの気を引こうと奮闘していた。だが当のいろはは、ふわ、とあくびをひとつ零し、長次の膝の上でぐずり始めた。

「かあさま、かあさまぁ…」

ぐずぐずと鼻を啜り、長次の膝から澄姫に向かって手を伸ばす。長次の隣で級友たちが袖にされる様を面白がって見ていた彼女は苦笑を零し、はいはい、といろはを抱き上げた。
彼女に抱かれて安心したのか、小さな寝息を立て始めたいろはをそうっと覗き込んだ長次がふ、とその表情を優しく緩めた。
いろはが寝てしまって残念そうにしていた留三郎たちが我も我もと寝顔を覗き込んで、全員がふらりと床に倒れこんで“か、可愛い…!!”と悶える光景は、もう笑いしか出ない。

そんなこんなで昼寝を済ませたいろは。今度は食堂で誰が正面に座るかでまた揉めに揉め、居合わせた生徒たちから色々な視線を投げられた。
明日はいよいよ、いろはが全校生徒に紹介される。
一体どれだけの生徒や教師が骨抜きにされるか、ちょっと楽しみになってきた澄姫だった。

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