育児開始

「はい、あーん」

「あー」

食堂にて、可愛らしい兎がついた木彫りの匙で、ご飯をいろはの口に運ぶ澄姫に、数多の視線が突き刺さる。
それもそのはず、学園長に挨拶を済ませたところでお腹が空いたとぐずり始めたいろはを食堂に連れてきたら、丁度昼飯時。混雑した食堂にいたほとんどの生徒たちがまん丸に目を見開いて、現れた彼女たちを見た。

「ちゃまご、たべうー!!」

「はいはい、たまごねー」

開き直ったかのように視線を気にせず食事を始めた彼女たちに、おばちゃんですら唖然として、言われたまま黙ってランチを差し出した。
そこに現れた伊作と留三郎が、特に留三郎が、それはもう嬉しそうにいつの間に作ったのか可愛らしいいろは専用食器を差し出して、甲斐甲斐しく面倒を見始めたのだ。しかし、いざ食事をさせようと留三郎がいろはを膝に乗せたら、母様がいいと泣き出してしまった。
泣く泣く彼女に引き渡し、妥協してやったといわんばかりに彼女たちの正面を陣取り同じく食事を始めた伊作と留三郎がでれでれといろはを見つめていると、そこに顔面蒼白の滝夜叉丸がやってきた。
既に食事を終えた彼は、姉の抱える衝撃的なものに動揺を隠せないようだ。

「あ、姉上…いつの間に…」

「産んだかなんて言ったら殴り飛ばすわよ滝」

恐る恐る問い掛けてきた弟に対して遠慮のない一言を投げ掛けると、騒がしかった食堂が急にしんとなった。

「…恐らく明日、学園長先生から説明があると思うけれど、かくかくしかじかでこの子の面倒を見ることになったのよ」

聞き耳を立てている生徒にも良く聞こえるようにそう説明してやると、滝夜叉丸はあからさまにホッとして、そうだったのですか、と頷いた。
そして、身を屈めていろはの顔を覗き込む。
はぐはぐと手掴みで懸命に卵焼きを頬張っていたいろはが、覗き込んできた滝に気付いてぽかりと口を開ける。
そして、嬉しそうに笑って彼に手を伸ばした。

「あー!!にぃにぃー!!」

突然のことに戸惑う滝に、にぃにぃ、にぃにぃと嬉しそうに抱っこをせがむその姿を見て、留三郎が食べていたうどんを吐き出した。

「に、にぃにぃ?兄上ということか?姉上、これは一体…」

「…私が母上だって言うから、まぁ、滝は叔父ってことよ」

眉を下げて困ったように問い掛けた滝夜叉丸にそう説明してやると、はぁ、と納得したのかしてないのかわからない返事をして、彼は恐る恐るいろはを抱き上げた。

「にぃにぃ、あれして!!いけいけどんどーんして!!」

「ぶっ!!いけいけどんどん!!?」

滝夜叉丸に抱かれたいろはは嬉しそうにはしゃいで、とんでもないことを口にした。その言葉に、様子を見守っていた生徒は全員噴き出す。
どうしたものかと困り果ててしまった滝夜叉丸にいろはが首を傾げていると、その小さな体はひょいと突然宙に浮いた。

「いけいけどんどんは私の専売特許だぞ!!」

と、同時に元気な声が響き、滝夜叉丸はサッと青褪める。
しかし、いろはは嬉しそうに手足をばたつかせてぎゅうと小平太に抱きついた。

「きゃー!!こへちゃんー!!」

「え!!?」

いろはが嬉しそうに呼んだその名前に、澄姫が驚く。まだ会わせてもいない、知らないはずの彼の名前を、いろはは呼んだ。
そのことに、伊作も驚いている。

「ん?お前どこの子だ?会ったことあったっけ?」

「こへちゃん、いっちゃんわすれちゃった?とうさまとかあさまによくくまのおにくくれにきた!!」

「くまのおにく?んー、よくわからんな!!」

小平太は首を傾げて暫く考えていたようだが、すぐに細かいことは気にするな、と言っていろはを天井近くまで放り投げた。

「きゃー!!高い高いー!!」

いろはの言葉に茫然としていた澄姫だったが、嬉しそうな叫び声でハッと我に返り、慌てて小平太からいろはを取り上げた。

「小平太!!いろはは今ご飯中よ!!いろはも、ご飯の時は遊ばない!!」

強く叱りつけると、小平太といろははしょんぼりした。が、食べ終わったら遊ぼうと約束をして、大人しく食事を再開した。
しょんぼりと、それでもしっかり口を開けるいろはに留三郎が小鉢に取り分けて冷ましておいたうどんを差し出す。

「ほら、いろは。そんなしょんぼりすんな。しっかり食って、それからたくさん遊んでやっから、な?」

「うん、とめしゃんあーとぅ…」

「聞いたか伊作!!留しゃんだってよ!!いやもうほんと可愛いな!!」

ぺこりと頭を下げてしっかりお礼を言ういろはの姿を見て、留三郎が興奮しながら伊作の背中をばしばしと叩く。

「いたっ、痛いよ!!もう!!変態臭いなぁ…でも、なんかいいな…ねえいろはちゃん、僕は?」

汚らわしいものでも見るかのような視線を留三郎に投げた伊作だったが、呼び方が羨ましかったようで、身を乗り出していろはに問い掛けた。

「ん?いしゃっくん?いしゃっくんは、いしゃっくんだよ?」

そして不思議そうに答えたいろはの言葉を聞いて、嬉しそうに留三郎の肩を叩く。

「聞いた留さん!?僕いしゃっくんだって!!舌っ足らずで可愛いなぁ!!」

「いてぇ!!加減しろよ!!確かに可愛いけどな!!」

そう言って盛り上がり始めた2人を、澄姫は真剣な表情で見つめる。
確かに数回、いろはの前で伊作の名も留三郎の名も呼んだ。呼んだが、果たしてこんな小さな子がすぐに覚えられるものだろうか?先程の小平太の名もそうだ。
いろはは彼女を母様、と呼んだ。

ひょっとして、この子は未来から来たのだろうか?

そんな考えが彼女の頭をよぎったその時、小さな手が彼女の腕に触れた。
ハッとして視線を下げると、そこには不安そうな顔をしたいろは。

「かあさま、どこかいちゃいの?」

大きな瞳に宿る不安の色を見て、澄姫は笑顔で首を振った。

「なんでもないわ、大丈夫よ」

例えそうだとしても、違うとしても、こんな小さな子を疑うだなんてどうかしてる。そう言い聞かせて、そっといろはを抱き寄せた。

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