酸素濃度






息が苦しい。それは期待であったり、尊敬であったり、羨望であったり、向けられた感情は多分ほとんどすべてがプラスの物だったけれど、過剰に押し付けられ、あるいは注がれたそれらは、最初こそただ嬉しいだけのものであったけれど、徐々にわたくしたちを圧迫していった。自由が利かない。無意識のうちにわたくしたちをじりじりと縛るそのイメージは、気付かないうちにわたくしたち自身の行動も制限していたようだ。ツンとすましてめったに笑えなくなったし、クダリは無邪気に地下を駆けるこどものようにふるまうようになっていた。いつからこうなってしまったのか分からない、周りの誰もが純粋な好意しか抱いていない。わたくしたち自身と、その抱かれるイメージのギャップはごくごく小さなものだった。だから、余計にたちが悪い。すこしずつすこしずつ自分から離れた印象を背負わされることになった。積もり積もったイメージとのギャップに気付いたときにはもう、求められるまま無意識に演じ続けてきたキャラクターはすっかり浸透してしまっていて、抜け出すことなどできなかった。ばこんとスチールロッカーの扉を乱暴に閉じる。横に視線をやれば、わたくしと同じく微妙に眉をしかめたクダリが襟元を正しながらロッカーにくっついている小さな鏡を覗き込んでいた。


「クダリ、天使ならそのような事なさらないのでは?」
「ノボリこそ、クールビューティー気取ってるくせにそのだだっこみたいなしかめっ面、やめたら?」


フゥとどちらともなく嘲笑染みたため息を吐いて、コートに袖を通す。クダリに言われる程情けない顔をしていたのか、鏡を覗き込めばなるほど、不機嫌を隠しもしないむっとしたような顔の男がそこへ写り込んでおりました。これはいけない。ポケットに突っこんでいた数個のキャンディーを名残惜しくロッカーの隅に押し込んで扉を閉める。


「ノボリ。……ルールを守って安全運転!ダイヤを守って皆さんスマイル!指差し確認準備オッケー!目指すは勝利!」
「出発進行ー」
「ちょっとぉ」


クダリと違ってわたくしは多少不機嫌でもクールビューティー、に、見えるから良いのです。ひくりと唇の端をひきつらせて笑う白いコートを尻目に、更衣室のドアを開けました。先ほどから何度もインカムでシングルトレインの呼び出しをされている。こんな朝早くからもう挑戦者とは、面倒この上ない。ちらほらとまばらに構内をうろついているお客様を縫って歩くようにトレインのホームに向かった。耳に届く聞えよがしな囁きは、ノボリさん今日も綺麗ね、だとか、性的、だとか、あぁもううるさい!黄色く並ぶ点字ブロックを蹴っ飛ばすみたいに電車へ荒っぽく乗りこんで、ごとごと運転が開始される振動を感じていた。だるい眠い。バトルは好きだが所詮客商売、思うように動けないことなど山ほどある。そんなことは分かっている。『ボス、挑戦者18両目突破しました』「了解です」ぎゅっと白い手袋に包まれたてのひらに力を入れたら、カリッと手の中でボール同士がこすれる音がした。帰って寝たい。『ボス、挑戦者20両目突破しました。スタンバイお願いします』「…了解です」布張りの青い縦長シートから立ちあがり、かちっと腰のホルダーにボールをセットする。きゅっと目深にかぶりなおした制帽の下から、人影のうつりこむドアガラスを睨みつけた。イメージ商売だからね、脳裏でクダリが厭味ったらしく微笑む。うるさい黙ってなさい。ごろりと重たい音を立てて20両目との境の扉が開いた。


「本日はバトルサブウェイご乗車ありがとうございます、わたくしサブウェイマスターのノボリと申します。」
「はいー。あ、わたしなまえです」
「…さて、次の目的地ですがあなたさまの実力で決めたいと考えております」
「え?ノーマルはここでお終いなんじゃないの?」
「ポケモンの事をよく理解なさっているか、どんな相手にも自分を貫けるか……」
「さっき捕まえたばっかだけどもうこの子とわたしマブダチですよ、ねっレパルダスちゃん、ヤブクロンちゃん、チラーミィちゃん」
「……勝利もしくは敗北、どちらに向かうのか」
「あ、行き先ってそういうことかー」
「………では、出発、進行ーッ!!」
「進行ー!!」


非常に人の話を聞けと怒鳴りたくなるお客様が本日最初の挑戦者さまでございました。ミニスカートの、多分どこぞのスクールへ通っている生徒でしょう、平日だというのに学校はどうしたのか。聞く必要もありませんが。








結論から言うと、ポケモンはそこそこ強かったのですが、トレーナー自体は話になりませんでした。技の指示も出さず、あぶない!だの頑張れー!だのと声を張り上げているだけなのでございます。よくここまで勝ちぬけたものです。ここ最近で一番おかしなトレーナーです。駅へ着くまでの少々の時間を、シートに並んで座って潰している間も、レパルダスの肉球をぷにぷにと触って遊んでいるだけでした。


「あなた、学生ではないのですか?」
「え?……あぁー、そうです、けど」
「今日は学校は無いのですか」
「………無いのですよ」
「嘘ですね」
「はい、嘘です」
「…………」
「いや正直に話しただけなのに何で黙るんですか」
「何とコメントしていいやら」


手持無沙汰に彼女が触っているレパルダスの肉球へ自分も手を伸ばしぷにっと触れて誤魔化す。おや、思ったより弾力性に富んでいる。面白い。


「どうして学校に行かないのです?」
「ううん……受験ストレス、ってやつですかねぇ。みんなみたいに必死で勉強してるわけじゃないけど…ちょっと、疲れちゃって。あ、いっつもサボってるわけじゃないですからね。今日は特別です、特別!ほら、行きたいとこもないのに勉強するの辛いっていうか」
「進学したいわけではないのですか」
「うーんと、多分そうなんだと思います。周りに期待されてるから、そうしなきゃって思ってるだけかも」
「ふうん」
「ほんとは旅に出たかった、かなぁ……違うかな、何かしらこう、目標になるものを探したかったのかな、わかんない。人の真似して同じことするの、楽しくないです。何か素敵な物を集めて回りたい、かも?うーん」


ぷにっと少し強めに肉球を押したら、にゅっと鉤爪が飛びだした。


「自分のしたいようにするのがいいと思いますけどねぇ」
「それがなかなか難しいんです」


お兄さんだってそうなんじゃないんですか?ニヤッと笑って人差し指をぴっと立てられた。ぷにぷに。「クールビューティーなノボリさんでしょ、あなたが。白い方は天使のクダリさん。雑誌の特集によく出てる。へろっとした顔でレパルダス触るような肉球プニリストだとは思わなかった」何でもないような声で言われたけれど、何か含みのある言葉のように思えた。肉球に触れていた手を離して腹の上で組む。


「すいませんね、イメージを壊してしまって」
「いいえ?むしろ可愛いです」
「可愛いですか」
「可愛いですよ」


可愛いか?可愛いのか、そうだろうか、クダリはよく可愛い可愛いと言われているけれど、わたくしは可愛いなどと言われた経験がありません。彼女曰く『へろっとした顔で肉球をぷにぷにしている男』が可愛いかどうかなんて、判断できない。ちらりと顔をうかがったが、別段からかっている様子もない。またそろりと肉球に手を伸ばした。ぷに。ぷにぷに、ぷに。


「自分のしたいようにすればいいのに」
「それがなかなか、難しいのです」


あなただってそうなんでしょう?きろっと視線だけ隣へやって言えば、彼女はこちらを見つめながら数瞬沈黙した後ニヤッとまた笑って、いいえ?と呟いた。「できるに決まってるじゃないですか。わたしを誰だと思ってるの?」「さぁ、知りません」「えぇぇ、さっき名乗ったのに。まあいいけど」ごとんごとんと車輪の音が響いて、トレインは減速しはじめる。「やりたいこと、見付からないけど…今日の収穫は案外自分と同じようなこと考えてる人がいたってことが分かれたことですね。…あ、ポッケに飴入ってた。いっこあげます。みかん味」「え、どうも…ちょっと待ちなさい、同じこと考えてる人って誰のことです、まさかわたくしじゃないでしょうね」「さあね!」ぷしゅっとトレインが停車した。「また来ます」「次いらっしゃる時にはちゃんとバトルが出来るようになっていて下さいましね」「あっは!それは無理かもしれないですねぇー」


ローファーでたん、と足取り軽くホームに降りた背中を見送った。「なまえさま、またのご乗車お待ちしております」「…頑張ります」ぺりりと貰った飴を包装から剥がし口に放りこんで、口内に広がる甘い味を感じながらぱこぱこコンクリートを蹴って遠ざかる彼女を閉じたドアの窓越しに眺めていた。姿は段々小さくなって、とろりとミルク色の背景に溶けていった。








「ノボリさーん。起きてくださーい。はんこ下さい」
「……………」


ぱち、と開いた視界に映ったのは緑色の制服に身を包んだなまえと化粧板を張っている白い天井。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。落っこちてましたよ、となまえに黒の帽子を手渡される。


「何か面白い夢でも見てたんですか?」
「何故ですか」
「へろっとした顔してたので」


昔の夢をみていました。ボディピロー代わりにしていたヒトモシドールを抱き寄せて独り言のように呟く。口の中に入れっぱなしだったキャンディーのオレンジ味が思い出したように主張をはじめた。喉に詰まらなくてよかった。


「なまえ?」
「はい」
「やりたい事は出来ていますか?」
「……ハイ?」


はぁ、まぁ、ぼちぼちですねぇとこちらを見ないで呟いたなまえの言葉にまたうとうとしながら目を閉じる。


「ノボリさんこそ自分のしたいように出来るようになったんで……寝てるし。はんこー………、まぁいいか」


とろとろまどろみながらも誰かに頭を撫でられている感触だけはわかった。「よしよし、ノボリさんはいい子かわいい子。無理しすぎてないか心配です」休憩室のドアを出ていけばまたクールビューティーのフリをしなければならないかもしれないけれど、今だけはこうしていたかった。誰にも甘えずキリッとした視線で相手を射抜く地下のトレーナーとして名をとどろかせるのも嫌いではないけど、たまには誰かにすがってふかふかした何かに身を沈めたい。綺麗だと称賛されるのは嬉しいけれど、かわいい人だと甘やかして周囲の期待から隔離し守ってくれる手がある方が安心する。底なし沼のような依存かもしれないけど、確かにそれは何年も前のあのひとつの言葉からずっと、心のよりどころだった。綺麗、格好良い、強い、頼りがいのある、最強の、セクシーな。そんな一万回繰り返された言葉でなくって、かわいいねとまるでこどもでもみるように優しげに、初めて渡されたあの言葉が未だ記憶にこびりついている。もしかしたらただ言われ慣れない言葉にびっくりしただけだったのかもしれません。不意打ちに可愛いなどと言われてうろたえただけだったのかもしれません。ぱしゃっと小さくシャッター音が響いてまぶた越しにフラッシュのひらめく光が見えた。またあの言葉が聞きたかったというだけで入社の手引きをするなど、いやまったく早まった事をしたものですねぇ。この部下は本当に困った馬鹿です。




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