ある夜のおはなし






かたかた、かたん。キーボードをたたく指が止まった。かけていた眼鏡をはずしてデスクに置き、眉間に手をやって軽く揉みほぐす。そのまま左手も顔の前まで持って行って、目を覆って、ぎぃっとのけぞり背もたれに体重を預けた。ああ、あ、疲れた。じんわり眼球に涙の染みる感覚がする。今度目薬を用意しよう。規則的に時を刻む壁時計に視線をやったら、とうに零時を回っていた。道理で目もかすむはずである。ぼんやりと輪郭を蛍光灯の白い光に溶けさせている室内を見回した。
………ソファにふたり分、寄り添うように人が転がっている。何故気付かなかった。


「……クダリ、クダリ起きなさいクダリ」
「ん……ノボリ?ふぁ……あれぇ、え…あー、僕…寝ちゃったのかぁ、ぅあー……ふぅ……今何時……ゲッ」
「あなた帰ってなかったんですか。寝るなら仮眠室」
「んー…ノボリ待ってた。寝る、でもその前にシャワー………えっ、なまえも帰ってなかったの」
「そうみたいですね」


つん、とクダリが彼女のほっぺたを指でつついた。ふにふにと指先を柔らかい頬に沈みこませて遊んでみるけれど、一向になまえは無反応で眠り続けている。


「……起きないね」
「そうですね…」
「ううん、しょーがない。僕がなまえ、仮眠室まで運ぶよ。ここに寝かせとけないでしょ」


よいしょ、なまえの膝裏と背中に腕を通してクダリがひょいと彼女を持ち上げた。頬で遊ぶのとは違って流石に今度は彼女もぴくりと反応を示す。


「あ……起きちゃった?」
「いえ、寝てます」
「そう、よかった」
「あ…クダリ、やっぱりわたくしが運びますよ。あなたはシャワーを使っていらっしゃい」
「え、何で?もう抱っこしちゃったし、いいよ僕が連れてくから」
「あなたシャツにコーヒーこぼしたでしょう。袖口に染みがついていますよ。なまえの制服にコーヒーのおすそわけでもする気ですか」
「え?うわホントだ。……ううん、もう乾いてると思うけど……まぁいいや、じゃあノボリに任せる」
「はい」


そろっとなるべく揺らさないように起こさないように、クダリからなまえを受け取って抱きとめた。寝ている生き物の温かさと意識のない女性のぐたりとした重みが腕にかかる。


「あ、クダリ。イスにかかってるわたくしのコート、取って下さいまし」
「うん?はい」
「それを広げて、なまえにかけて下さい」
「えぇ?」
「風邪をひいては困りますでしょう」
「あは、仮眠室運ぶ間に風邪引くの?ノボリってほんと、なまえに甘い」


ぱさり、わたくしの黒いコートがなまえの体に被せられた。「ノボリのコート、なまえには大きいね。お布団みたい」「そうですか?」「ふふ、赤ちゃんみたいに寝てるね」くしゃっとクダリはなまえの髪を撫でた。「じゃ、僕シャワー浴びてくる」「はい」がしがし頭を掻きながらあくびをひとつこぼして、白いコートを腕に抱えクダリは執務室から出ていく。「あ…ノボリはまだ仕事、するの?終わった?」「もう終わりましたので、なまえを寝かせたらわたくしもシャワーを浴びに行きます」「そう」シャワールームのドアに消えて行ったクダリをみながら、こちらも行儀悪く肘でドアを開いて、仮眠室までの暗い短い距離を、なるべくこつこつ靴の音がしないようにゆっくり歩いた。「ん、んんん……」むずかる子供のような声が腕の中から上がる。本当に子供を抱っこしてでもしているような気分になってしまって、思わずなまえの額に頬を擦り寄せた。あたたかい温度。


「ん………ん、…くだり、さん?」
「なまえ?起き、」


すりっとわたくしの胸元に頭を寄せて、ふにゃりとなまえが笑った。電気の消えた暗い廊下でも、そのくらいは見える。途端、心臓がいやにばくばくしだした。ゆっくり進めていた足が止まってしまう。


「む、んむぅー……んぁ……これ…のぼり、さんの、…コート…でしょう。…んん…んー、む……」
「あの、……………うん、そう」
「えへー……ノボリさんの、におい…するもん……」
「そう、なの?」


いいにおい、します。とろりとした気だるい口調で、目をつぶったままなまえは呟いた。身じろぎもできないで彼女を抱えたまま立っていると、また静かになまえは寝息を立て出した。…寝言、寝言ですよね。どきどき速めのスピードで動く心臓をなだめながら、仮眠室のドアノブを、なまえの脚に通している方の手でひねって開けた。真っ暗な室内を危なげなく歩いて行く。いちばん奥のベッドの上に、なまえの体をゆっくり下ろした。備え付けの毛布を彼女の脚元からひっぱって、その体にかけてやる。入れ換わりに黒いコートを抜き取、………ろうとしたのだが、ぎゅっとなまえがその襟元を握り締めていて離さない。その握りこぶしを解こうと屈みこみ、一本ずつ左手の指をゆっくり剥がす。ぎゅーと力の籠っていた手が力なくシーツにおっこちる。はぁ、拳を握ったままでは安らかに眠れないでしょうに。なまえの額にかかる髪を手櫛ですいて、さぁ自分もシャワーを浴びに行こうかと立ちあが、………ろうとしたのだが、びしっとネクタイが何かに引っかかったようで、上体が上がらなかった。己の首から垂れさがる青いネクタイを視線で辿ると、そこにはなまえの右手が。しっかりと青色の端をにぎり締めている。


「なまえ……なまえ、離してくだ、」
「………クダリさん……………クダリさん?」
「なまえ?」
「……やだ、さむいです。いかないで」
「なまえ……ネクタイ離」
「おやすみのちゅーは?」


………おやすみのちゅー?「いつもしてくれるのに、きょうは、ないんですか?」ちょっと待って下さい聞いてませんがわたくし、クダリとなまえがお付き合いしているなど。あの子供じみたクダリが女性と付き合うなど。そんなそんな。


目を瞑ったまますりすり、彼女がわたくしの、シーツについたままの手に頬を寄せる。「おやすみのちゅう、してくれなかったら、わたし寝ません」きゅっと微かにネクタイを手繰り寄せられた。「あの、ぼくは」心臓がばくばく激しく動いている。いけない、だってなまえとクダリが付き合っているならここにいていいのはわたくしでなくクダリだ。彼女はふぅと眠たげな息を吐いた。あ、あ、いけないのに、なまえに触っては駄目なのに、「おやすみのちゅー、したら寝るの?」「んん、寝ます」ちゅ、頬に唇を押し付けた。ばくばくばくばく、あ、危なかった。唇にしてしまわなくてよかった。頬だって十分にふたりへの裏切りだとは思うけれど。目をつむったままの彼女と未だ心臓が早鐘をうっているわたくし、しばし暗い部屋に沈黙が下りていて、そう思っていたら、やがてくすくすとなまえがとろとろした眠そうな声で笑い出した。


「ぷ、……ふふふー……あなたは、ノボリさんです」
「ち、がうよ?僕クダリだよ」
「いいえ、だってクダリさんは」


わたしにキスなんて、したことないし。ゆるゆる眠さにまどろんだ目を開いてなまえがおかしそうに笑う。「……騙されました」「んふふ、だまして、ないですしー」ベッドの縁に腰をおろして、のろのろと彼女が上げた腕を取った。「…ネクタイ、離してくださいよ…」「やー、です」ごろんとなまえは寝がえりを打ってしまう。ひっぱられたネクタイに引きずられて上半身をシーツに押し付ける羽目になった。「ちょっとなまえ…」シャツはともかく、スラックスがシワになってしまう。


「このまま寝ちゃいましょうよー…どうせ、もうお仕事終わったでしょう?」
「わたくしシャワー浴びてないんですが」
「明日の朝で、いいんじゃ、ないですか…」
「ズボンが皺になってしまいます」
「わたしも多分、もう制服しわしわになっちゃってるし、いいじゃないですか、おそろい、おそろい……。予備出せば、いいし……。もしクダリさんだったら、きっと、ズボンのシワなんか、気にしませんよ?」


とろりとした眠たそうな目で見つめられて優しく頬を撫でられると、何だか溜めこんだ眠気が急に襲ってきたようで、まぶたが異様に重たくなった。よしよしとあやすように髪を撫でられる。そろりと彼女の体温が移ったあたたかい毛布を半分、かけられた。もう抜け出せない。力の入らない腕でなまえ軽く抱き寄せる。


「……クダリだったら、きっとあなたに抱きついて眠るでしょう?」
「んー…どうでしょう、ねー」


ぼそぼそと至近距離で囁き合いながら、どろりと襲う睡魔に抗わず目を閉じた。






なまえを置いたらシャワー浴びにくるって言ってたのにノボリがいつまでたっても来ないから、おかしいなぁ、やっぱりもう少しお仕事進める気になったのかなぁと思って、白いシャツとだぼっとした緩めのジーンズを履いて執務室へ向かったら、そこはとっくに電気が消えてて真っ暗だった。じゃあまだ仮眠室にいるのかとベッドの並ぶ部屋へ足を進めると、いちばん奥のベッドに案の定いた。まぁ、なまえと寝てるとは思わなかったけど。


「ふふふ、一緒に寝るとかほんとこどもなんだから。ふたりとも」


すやすやと安らかな寝息を立てて身を寄せ合ってひとつの布団で眠るふたりに、もう一枚上から毛布をかけてあげた。添い寝だとか、色っぽいものじゃない。こどもがふたりくっついて眠ってるみたいな、あどけない顔。皺にならないようにスラックスとコートをハンガーに吊るし壁にかけてから、両手でそうっとノボリとなまえの頭を撫でる。もそもそと少しだけ、ふたりは身をよじった。僕はそれを暗闇で穏やかに眺めながら、隣のベッドにもぐりこんだ。




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