病は脳にまわりきった








幾度も幾度もここを脱出しようと木製の扉をひっかいた指先は既にぼろぼろで、爪がグロテスクにねじ曲がっていた。窓はあるものの頑丈な鍵がいくつも取り付けられていて出られそうにない。ガラスを叩き割ろうとしてもそれは防弾仕様なのか、傷ひとつつかなかった。めいるような曇り空のために室内へ差し込む光はほとんどなくて、モノクロに見える部屋の中は息が詰まる錯覚を覚えるほどの閉塞的で気がふれそうだ。時折ちらちらとさしこむ光に照らされて浮き上がる壁の白っぽい染みが、白くてひょろりと長細い彼のように見えて一層恐怖を煽った。


「ぅ゛、ぁ」


服が擦れて胸元につけられた火傷が痛む。まだじくじく痛む煙草の痕は覚えてるだけで7つ。でも背中に残る黒々した点々も合わせたら確か19。意識すると忘れていた痛みもどんどん酷くなって辛かった。埃と砂を塗ったような汚い床にぐったり体を横たえると、部屋の隅に乱雑に寄せられている段ボール箱から転げ落ちてるぼろっちいスリッパがカビと綿埃とかぴかぴに乾いた精液にまみれているのが見える。なんであれあんなんなってるんだっけ。そうだ、確かここに放りこまれた結構最初の時に、ひどいことされて、ひどい扱い受けて、放っておかれて、床に散らばったあれをそのへんにあったふかふかのスリッパで拭ったんだ。スリッパも雑巾代わりに使われてさぞご立腹のことだろう。未だ洗ってもらえなくてかぴかぴのぱりぱりだしね。くそ、あのモヤシ野郎、柔和な見た目に反してほんと最悪。じゃりっと足首から聞こえた錆びたような音はその通り、わたしの脚にがっちりと取りつけられている足枷から発せられたものだ。家畜のように鎖をつけられ暗い部屋に閉じ込められて、もはや自分がちゃんとした人間だったのかもよくわからない。何度も枷に擦られ、血が出てぼろぼろになって硬化した足首は自分でも目をそむけたくなるくらい醜い。動物の蹄みたいな黒と茶色でまだらの、がりがりしたかさぶたの下から、またじわじわ赤黒い血と透明な体液の混ざったみたいな液体が滲みだしてきて、泣きたかった。がちゃり、がちゃん、がちゃり、いくつもの鍵を外す音のあと、ぎぃっと重たい扉が開く。


「なまえ、イイコしてた?」


埃っぽい淀んだ部屋の空気を割るような綺麗なテノールボイスが響く。床に頬を預けたまま目を閉じて聞こえないふりしていたら、びしゃっと顔面に何か冷たい液体をぶちまけられた。びくりと体を縮こめる。眉をしかめながら目を開くと、ぽたぽた前髪から滴るしずくの向こうで、しゃがみ込んだ体勢のクダリさんが右手の先からぽたぽた水を垂らしながらニコニコニコニコ笑っていた。「目が覚めた?顔洗ってすっきりしたね!」この部屋には水気なんて部屋の隅に申し訳程度に目隠しもなく置かれている洋式トイレの中にくらいしかないからこれ多分その水だ。有り得ない。潔癖そうなこいつが便器の水なんて手に触れるはずないかも、これはひょっとしたら流水タンクに溜められてた方の水かも、なんて一瞬思ったけど、タンクの蓋を外すごとごとした音もしなかったしこれやっぱ便器の水だろうなぁ最悪。最悪だ。まぁよく考えたらこいつが潔癖なんてありえないかもしれない、だってわたしをブチ込んであるこの部屋は埃まみれで汚いし自分のぶちまけた精液は片づけないしここへ連れて来られた初日なんか汗もかいてて砂っぽくて汚れてるだろうわたしの体を全身くまなく舐められた。そりゃあもう足の爪先から頭のてっぺんまで舐められた。足の間や脇までべろべろ舐って鼻先を押し付けるこいつに心底吐き気がしたものだ。髪の毛の束をじゃぐじゃぐと噛みしめられた時は吐き気と言うより恐怖感が先行したけど。


「ごはん持ってきてあげたのになまえ、僕を無視しちゃだめ」


ぐいと前髪を掴みあげられて目線を合わせる事を強要される。薄暗い部屋に浮かび上がるようななまっちろい綺麗な肌にむかついた。だって私はこんなにざりざりでがぴがぴでどろどろに汚くされてるのに。


「今日は何だと思うー?………はい時間切れー、正解はおすしでしたー」


左手に持ったプラタッパを掲げてニコニコ笑っている。いつもはぐだぐだに煮込んだまずい野菜のスープとかこいつの残飯くらいしかくれないのに、今日は随分と豪勢なことだ。


「どれ食べたい?まぐろ?赤貝?いか?はまち?あ、うに好き?なまえうに好きそうな顔してるね!」


返事を待たず口に突っ込まれた。乾燥してひび割れている唇の端がまたぴっと切れたのがわかった。痛い。突っ込まれた指を齧ってやればよかった。唾液分泌の少ない口を緩慢に動かして咀嚼する。


「でもそうやって床に丸まってるとエビに見えるね!あはは!」


愉快そうに笑っているが何が面白いのかさっぱり分からない。


「あ、サーモンは無いんだごめんね!僕のデンチュラが食べたいって鳴くからあげちゃった!」


別に要求してないのに悪びれなく謝られた。どうでもいい。


「今日はね、お祝いの日だから特別になまえにもおいしいの上げようと思ったの」


何のお祝いかわかる?可愛らしく小首を傾げたこの人の顔を無感動に見つめ返す。これ知ってる?知らないよね!ぴらんと目の前に出されたぼろい紙っぺらに目を凝らした。「捜索願だよ、君の。まぁ正確には君を探してる人たちの作ったチラシみたいな奴だけど。それの、コピー」もしかしたら誰かが見つけてくれるかもしれない。誰かが助けてくれるかもしれない。期待に少しだけ目を見開いた。けれど、「で、これさっき送られてきたファックス。電話かメールかしてくれればいいのにね、わざわざファックスとか、けーさつも古っちぃね」四つ折りの跡がついたそれをぺらぺらと、軽い調子でひらめかせる。「捜査は打ち切りだってさ。君は死亡届が出される」打ち切りってそんな、わたしはここにいるのに、打ち切り、うそだ、わたしがここに入れられてから一体どれだけの時間が経ってしまったのか、うそだ、「あーあのね、あとね、ファックス受信中にノボリからも電話きた」そうだ、そうだノボリさんなら助けてくれるかもしれない、「なまえの葬儀を近日中にやるから、準備しておけってさ」だからね、もうなまえを連れ戻しに来る人居ないよ!ニコニコ嬉しそうに笑いながらぐしゃぐしゃと頭を撫でて、軽い足取りで窓へ歩き寄る。「この部屋じゃなまえ、嫌だよね。もっと綺麗な部屋に移してあげるね。窓も明るくて、おひさまもいっぱい入る……あれ」傷もない綺麗な指先で窓ガラスをついと撫でた。「なまえ、まだ出ようとしてたの?しょうがないなあ、出ちゃダメって言ったのに。まぁそうか、僕がいなくて寂しかったんだね」ガラスにべたくた貼りついたわたしの指の跡をなぞっている。「ふふ、指紋までカワイイ、なまえ。あぁ、レールに血がついてる。ここ開かないよって言ったのに…」長身をかがめてさらさらした髪をかき上げながら、見せるようにべろっとそこに付いているらしいわたしの血のあとを舐めあげた。気持ち悪い。


「さ!もうこの部屋とはお別れ!僕の寝室のお隣が、君の新しいお部屋!物置きよりはいいトコだよ!」


ぐいっと腕を掴んで持ち上げられる。力加減を考えないそれに、ずきんと掴まれた個所が痛んだ。


「まずはおふろだよね、さっき僕水ぶっかけちゃったし、埃まみれだもんなまえ」


状況さえ考えなければ女の子がときめくような軽々とした所作でひょいと抱きかかえられて、そのまま風呂場まで運ばれる。どれくらいぶりだろう、ちゃんとしたおふろに入れてもらえるの。もっぱら最近は水をぶっかけられるだけとか濡れタオルでごしごし拭かれるだけとかだったから、少し嬉しい。乱暴にシャワーで少し熱めのお湯をかけられたけどそれでもやっぱり、人並みの扱いは嬉しかった。


「髪洗うよー。んふふ、これ、なまえ専用のシャンプー」


じゃこじゃこ彼がポンプから出した粘性の液体は、わたしの記憶にあるシャンプーとは少し異なっていた。主に臭いが。「僕特製の、なまえ専用シャンプー!」ああ帰りたいなぁ。もう自分の家がどこにあったかも忘れてしまったけれど。






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