喧騒








これがしたいあれを見たいそれが食べたいどこに行きたい。彼女がひとことそう言えば、わたくしにはそれを叶えないという選択肢などございませんでした。なぜって、彼女の幸せが自分の幸せであると、わたくしは盲目的なまでに信じていたからでございます。好きな人の幸せは自分の幸せだと、幼いころより世間に、大人に、親に、教えられて育ってきたわたくしにとって、それはあたりまえの常識のようなものでした。まぁ果たして彼女の要望を全てかなえることで彼女が本当に幸せになったは今思えば疑問なのですが、すくなくとも不幸ではなかったに違いない。彼女の快いものだけを集め、彼女に不快なものは除く。与えて守って、それだけのことです。彼女がぽつりと漏らす独り言のような願望も、わたくしは耳ざとく収めてはかなえて差し上げてきました。彼女の幸福と言ったらほんとうに小さく、例えばヒトモシのこどもを抱いてみたいだとか、観覧車のライトアップが見たいだとか、ヒウンアイスが食べたいだとか、みんなでピクニックに行きたいだとか、まるで幼稚園児のやりたいことリストのようなものでしたから、かなえる事は造作もありませんでした。そんな小さなことでいちいち幸せをかみしめる彼女を見て、わたくし自身が満足したかっただけでないかと言えばそれもそうかもしれません。彼女の為といいながら、本当は自分の為だったと。はぁ、そうなのでしょう、きっと。ですから先日からなまえに付きまとっていた妙な男をブラックシティの路地裏に引きずりこんで殴り倒した今も、なまえの為と言い訳しても、きっと自分がすっきりしたかっただけなんだと思います。ええ。事実、男の汚らわしい頭部をごりごりと靴底で踏みにじった瞬間、ぞわぁと自分でも嫌になるような醜い快感がありました。さてここからが問題でした。なまえに近づかないでくださいまし、汚いウジ虫、と吐き捨て煙草の火を地面に押し付けたそこから立ち去った後、じぐざぐに入り組んだビルの隙間で、わたくしの目に入ったものは何だったと思いますか?さんざ引っ張った話です、おわかりになりますでしょうが、なまえでした。ゴミのようにぼろぼろとした格好で、ゴミのように地面にべちゃりと打ち捨てられている。その体にはところどころ痛々しい痣が残されており、その服や髪にはべたりと何か白くてどろりとしたものが垂れていました。腕にはいくつかのぽつぽつとした内出血の、下手な注射痕のようなあと。腿や脛には黒いマジックで、サブウェイマスター、わたくしに対する低俗下衆な悪口が。うまく回らない頭で考えるに、ひょっとするとこれは、弱っちいトレーナーが当てつけで行ったものでなく、もしかしてわたくしが個人的制裁を加えたクズどもからの復讐なのか。直接わたくしの元に来ればよいものを、むごいことをする。とはいえこちらに対しての効果は尋常でなく、今にも倒れ込んでしまいそうになった体を、ビルのほこりっぽい壁に手をついて支えた。息がうまくできない。「………なまえ?」ぴくりともしない彼女に近づき、地面に投げ出された後頭部を支える。なまえ、なまえとぺたぺた頬を叩いて数度、ゆるりと開かれた瞼にほっとすると同時に緊張の糸が切れたか後悔の念に駆られたか、それとも懺悔したくなったとでも言うのか、眼球がかっと熱くなるのがわかりました。「すいません、ノボリさんが、ここ入ってくの、みて、それで」ぼんやりと焦点が合っていない目でわたくしの顔を眺めているなまえが、心底ばかだと思いました。わたくしに付いてこんな治安の悪い所にくるだなんてどうかしている。いつも通りに幸せな場所で、変わらぬ生活していたらよかったのに。安全な世界に慣れ過ぎて、そこが世界のすべてだと錯覚でもしてしまったのでしょうか。だとしたらその責任の一端は、ひょっとしてわたくしにもあるのでしょうか。「それで、そしたら、………ごめんなさいっ……」ぼろぼろと涙をこぼすなまえの涙を拭っていいものか躊躇しました。なにを謝るのか、わたくしの我儘で彼女が暴行を受けたというのに。持ち上がらない腕をだらりと体の横に垂らしたままなまえはかすれた声でわたくしにお願い事をしました。もちろんわたくしは迷いましたよ、彼女の望みならすべてかなえてやろうと思っていましたけれど、それをしてしまって彼女が幸せになれるとは思えませんでしたから。世間一般でいうところの、それは最大の不幸でしたから。でも彼女は泣いて頼むのです。お願いだからノボリさん、お願いします。彼女の幸せがわたくしの幸せです。彼女の望むことはなんだってかなえてやろうと思いました。


『……だからわたくしはそれをかなえて差し上げたのです。後悔は多少ありますがそれももうなくなるでしょう。クダリには迷惑かけると思いますがその後の事は頼みます。』




ここでノボリの手帳は終わっていた。それで、先ほどからあわただしくインカムより断続的に左耳へ届くこの悲鳴と叫び声の訳がわかった。








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