「……わけがわからないよ」
「おはようございますダーリン」


ちゅう。額に濡れた唇が押し付けられた。朝の日差しが眩しくて、思わずすがめた瞼にもひとつ、ふたつ、ちゅう。びっくりして押しのけた手を取られてその甲に、ちゅっ。どうしようインゴさんがおかしくなった。


「10時までは、ワタクシがあなたを買ってます、から……だから、その間だけ、こうしても良いでしょう。だめですか。どうですか」


恋人プレイです、最後くらいそれらしいことしても構わないですよね?
顎に親指を引っ掛けて持ち上げられて、視線が絡んだ。インゴさんはぼんやりしたような頬笑みで覗きこんでくる。構わないですよって擦れかけの声で返事したけどしっかり聞こえていたらしい、彼は曖昧に苦く笑ってもう一度頬にちゅう、ちゅっ。


「……いま、何時……」
「ん、9時を、少し過ぎたところです」


まつげをちゅくちゅく唇で辿りながらインゴさんは答える。やめてよまだ顔洗ってないんだから、汚いよ目やにとか多分あるよ。どうやら10時までインゴさんは徹底してわたしを恋人扱いするらしい。肩を緩く押したらその手も掴まれてもう一度ベッドに背中からぽすっと落っこちた。あと一時間足らずの間だけの恋人。


「何するの?……いいよ、追加料金もらったし、セックスでも、何でも」
「……まぁそれも、大変魅力的なのですけど」


一時間では足りないので、結構ですよと笑った。


「足りないの?」
「足りません」
「ねちっこいの?」
「自覚は、ありませんが」
「セックスしないなら、わたし何したらいい?」


きゅっと眉を寄せてインゴさんは口を開いた。


「何もしなくて、いいですから」


あぁそれ、いつだったかに聞いた言葉だなぁ。ぎゅうと上から覆いかぶさるように抱きしめてくるから、インゴさんの体重がかかって息が苦しい。肺がうまく酸素を吸ってくれないのは、インゴさんが被さってるせいだ。はぁー。深いため息。インゴさんの髪からはシトラスの甘い香り。多分わたしの髪からもシトラスの香り。だって昨日同じシャンプーを使ったんだもの。ぎゅうーってするインゴさんの心臓が、怖い映画の最中みたいにドキドキしている。わたしの心臓もドキドキしている。ころりと彼はわたしの上から退いて、シーツの上に転がった。フワフワしているインゴさんの寝ぐせに右手をのばしたら、掴んで指を絡め捕られた。皺の寄ったシーツごとずりずり寄ってきて抱き寄せられる、ぎゅう。ベッドサイドの時計を見たら、あと30分もない。無性に寂しくなった。インゴさんの大きな白い手のひらが、よしよしと頭を撫でてくれる。ずっとこうならいいのにな、インゴさんの手は気持ちいいから。それだけの理由。


「あの……聞いてもよろしいでしょうか」
「何ですか?」
「……やっぱりいいです、今更なので」
「え、何?」
「いえいえ」
「なぁに?」


インゴさんはうろうろ申し訳なさそうに視線をさまよわせてから、意を決したようにガバッと上体を起こした。わたしの頭の両脇に手をつき、キッと睨むようにしたあとで、ふにゃふにゃとゆっくり倒れ込んでくる。そして耳元で小さく呟いた。


「あなたの、お名前を」
「……ん?」
「名前を、教えて欲しくて」
「あれ?名乗ってませんでしたっけ?」


そんな質問のためだけに、こんな決心したような表情を作ったのか。何だかおかしくて笑った。かわいい。「わたしの名前はね、」ひそひそと彼の耳へ囁き返した言葉を、インゴさんはしっかりと受け取ってくれて、ぽしょぽしょとひとこと、ふたこと。そして、


「ナマエ、……ありがとうございました」


少し悲しげに眉をひそめ小さく笑った。カチリと長針が12をさした。





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