煙草の錯覚







はて?


ちゅっ、最後に濡れた音を響かせてインゴさんの唇が離れていった。舌先で軽く触れただけのキスだったから、口元もそんなべたべたになってない。彼はうっすら唾液が溜まっている下唇をぺろんと舐めて、無言で壁から手を離した。はて、はて?スン、吸いこんだ空気は苦いたばこの匂いなのに。ちょっと触れただけの彼の舌は甘かった。生クリームみたいな味がした。


「……なまえ?」


どうしたんですか、と胡乱げに覗きこむインゴさんの唇を見つめると、彼はなにか得心した様子でもう一度顔を寄せてくる。そういうことじゃないんだけどなぁと思いながらもインゴさんのキスは気持ちいいので抵抗するでもなく受け入れた。チロッと舌裏を舐めあげる彼の口は、舌は、やっぱり甘い。はぁっ、吐き出す湿った息も、煙草の苦い匂いじゃなかった。薄くコーヒーみたいな、香ばしい香りとでもいうのか。視線を合わせようとしたのか頬を撫でて唇が離れていくので、たった一秒前まで合わせていたっていうのに口元寂しくなって、唇へ吸いついたらびっくりしたような顔。でもすぐにとろんと溶けたような目になった。あんまりインゴさんの顔が近いもんだから、焦点が合わせられなくって彼の顔がぼやけてしまう。スルスル背中を撫で上げる大きな手にゾクゾクする。やっぱり、甘い味。


「んっ……、積極的ですね、嬉しいです」
「……インゴさんって、煙草の匂いするのに。キスは甘いですね」


ぺろりって名残惜しく彼の唇を舐めてから至近距離で会話して、目元を熱い指先で辿って撫でてくるインゴさんに言ってみた。彼の衣服からは苦い苦い煙草の匂いがするのに、彼の口はそんなものとは無縁みたいな甘い味がする。不思議。わたしは煙草のことなんかよくは分からないけど、喫煙者ってキスが苦くなるっていうのだけは知っている。


「あぁごめんなさい、ワタクシ、たばこくさいですね」


襟を手で引き寄せてインゴさんは、くんくん残り香を嗅いでいる。ちょっと可愛い。苦い匂いに顔をしかめて、インゴさんはごめんなさいともう一度呟いた。


「別にいいです、それ好きです」
「おや……なまえはたばこが、好きでしたか」
「そうじゃなくて、インゴさんの……匂い、だから」


ごにょごにょ口の中でもたつかせて言葉を発する。あれれ何だろうこれキスよりずっと恥ずかしい。あなたの匂いが好きだってそれ変態じゃないか。羞恥に耐えきれなくてしがみついたインゴさんの首元は、やっぱりインゴさんの煙草の匂いがした。初めて彼がここへやってきて、そして出会った時からずっとこの匂いだったから、もう彼と言ったらこの煙草の匂いだっていうイメージが出来てしまっている。落ち着く匂いだ。


「なまえ?ワタクシたばこ、吸いません」
「……えっ!?」


何だって?思わず身を離してまじまじ、下からインゴさんの顔を覗き込む。たばこ吸わないってどういうこと?じゃあ何でたばこのにおいするの?浮気?……浮気なの!?


「イッシュに来るたびに……カフェソーコ、あるでしょう。あそこへ行くんです」
「……カフェ」
「はい。それで、静かな席が良くて、たばこの席に」
「喫煙席?」
「はい」


ワタクシが喫煙者だと思っていたのですか?今までですか?ぷくぷくって面白そうにインゴさんが笑う。わ、笑うことないじゃんよー、だっていつも煙草の匂いするんだもん。確かに吸ってる所は見たこと、無かったけど!


「苦いキスで嫌がられては、困るので」
「……誰にですか」
「もちろん、あなたに。なまえ」


ちゅっ、て合わせた唇から滑り込んできた舌はやっぱりうっすら甘いので、つまりインゴさんは今日はショートケーキを食べたんだなぁ、と思った。今度はふたりで行きましょうよって提案してみよう。その時は出来れば禁煙席がいいな、そんでその後は煙草の匂いに上書きされてないインゴさんを存分に堪能させてもらおう。







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