兄は、僕の兄は。
朝起きたら、まずカーテンを開けるより何より真っ先に、彼の可愛らしい人形へおはようのキスをする。彼の恋人の、ナマエという名前のフィギュアだ。兄が名付けた。きれいなペールオレンジの肌に飾りボタンをはめ込んだような丸くてくりくりした目。つやつやで空中に踊る髪は、兄が毎朝丹念に丹念に、慈しむみたいにして手入れしてやっている。朝のさわやかな日差しの中で何かの儀式みたいに行われる毎日のそれは、正直なんかちょっと怖いと思う。彼女の(人形って呼ばないで下さい！と兄がさんざ怒ったので、僕もそれを人みたいに名前で呼んでいる)髪の束がつややかに太陽光を反射すると、兄はうっとりと締まらない表情で嬉しげに微笑んで彼女の頭を撫でるのだった。
「ノボリ……」
「あぁはい、今行きます」
兄はそして、朝食の席に着いたら、彼女を膝の上に座らせる。間違っても食べものをこぼしたりなんかしない。それは綺麗な手つきで食事をするのだ。時々彼女にもご飯をおはしで差し出すが当然ながらナマエは口を開かないので、結局は諦めて自分でそれを咀嚼する。
仕事中は、兄は至って普通の人と同じように振舞う。といっても異様なフィギュア萌え以外兄は全く普通の人であるので、この表現は少しおかしいかもしれない。勤務後は大抵僕と一緒に帰宅するが、たまに女性とふたりっきりで食事に行くこともある。相手は一度として同じ人でなく、しかしどことなくみなナマエと似た顔立ちだった。きっと食事のあとメイトとか行くんだろうと思う。でもそんな日、兄はとても遅くに帰って来てから、いつだって涙を流しながらナマエの前で自慰行為に耽るのだ。悲しそうな泣き声と押し殺した喘ぎ声が、微かに僕の部屋まで聞こえてくる。僕はその音を聞くと堪らなくなって、まるでノボリの性癖とか趣味とか嗜好とかを推しつけられてるような気になって、それがとても苦痛だから、聞こえないふりして布団にもぐりこむのだ。ノボリにとってナマエは、アニメの中みたいに動いてくれたり空から落ちてきてくれたりはしない、不良品の魔法少女みたいなものなのだろう。今日もまた、兄は朝のすがすがしい陽だまりの中、彼女の髪を柔らかい布で拭いてやっている。幸せそうにとろけた、けど少しだけ寂しそうな笑顔で。
ノボリが幸せならそれでいいけど、あぁけれど、ナマエが普通に生きてる女の子だったらもっとよかったのになぁ。