The obscure distance


 東京に引っ越してきてしばらく経つけれど、未だ東京の電車に乗るのは苦手だ。けれども高専は、都心からは離れているし、もはや山に近いから田舎出身の私からすればまま馴染みやすく、住めば都であった。任務の時は車の送迎つきのことがほとんどであるから、東京に住んでいてもラッシュ時の電車に巻き込まれる経験は片手で十分なくらいしか経験していない。私は補助監督という存在のありがたさをとても身に染みて感じている。
「はぁー……」
「何してるんですか」
 今日の任務でペアだった七海が隣で引いているような呆れている様子で声をかけてくる。私は今(おそらく)高専のある方角に向かって手を合わせて拝んでいる。他人から見れば人身事故で犠牲になった御霊に黙とうを捧げているようにでも見えるのだろうか。生憎、私はこれから到着する電車に乗り込まなくて済むよう最後の悪あがき、そう神頼みをしているのだ。お願いします、満員電車は勘弁です、今すぐ迎えに来てください、神様、仏様、補助監督様。

 ――数十体の呪霊の修祓任務、最後の一体を祓い終えると帳が上がった。
 任務終了の報告をしようと携帯電話を開くと、留守録に補助監督さんからのメッセージが入っていた。要約すると、急遽高専に戻ることになったので帰宅は自力でお願いします、ということだった。大きな怪我はしていないが、降って湧いた低級の呪いを千本ノックの要領で祓いまくる、というなかなか骨が折れる任務だったし、タクシーで帰りたいところだけど、ここからだと高速代もかかる上にあんな山奥まで行ってくれるタクシーを捕まえなければならない。そもそも経費が落ちるとしても私たち二人の今の持ち合わせで代金を支払えるのか些か心許ない。
 そんなことで無慈悲なことに帰宅ラッシュの時間であったが、私は人生で数回目の満員電車に乗り込む羽目になった。七海もうんざりした様子であったけれど、彼は都会っ子だ。私とはそもそもの経験値が違う。

 プシューっという音とともにドアが開いた。電車から吐き出されるように人が溢れ出る。疲れた顔をした人、人、人。そりゃ呪霊も湧き出るわ、という陰鬱な空間だ。田舎出身の私のライフはもうこの時点でほぼゼロだ。
 前の人と途切れないように、後ろの人から押し出されるように電車の中に体が押し込まれる。横にいた七海はいつのまにか私の背後に立っていた。
 再びプシューという音とともにドアが閉まった。ガタンっと電車が揺れ出発する。揺れの拍子に七海の足を踏んづけた。
「ごめん、痛かった?」
「いえ、別に」
 首を逸らして七海の顔を覗き込む。彼の眉間はうっすら寄っていたがこれはデフォルトのやつだ。たぶん、私が踏んづけたせいじゃない。
 周囲に目線を配ると、なんとなく周りの女性陣がちらちらと遠巻きに七海を見ている気がする。顔がいいからな、七海は。なんて思う。

 時折揺れながら電車は走る。停車駅で起こる人の波にもみくちゃにされながら、だんだんと乗り込んだドアとは反対側のドア付近の座席の角に追いやられてしまい、七海と向かい合わせになる。満員電車で物理的距離は近づくけれど、こんな人口密度では口を開くのも億劫だ。二人での任務だったけれど、帰りの間は終始無言だった。

――この先揺れますのでご注意ください、というアナウンスに身を構える。
しかし想定していた揺れとは違う方向に体が傾き、咄嗟に目の前にいた七海の制服を掴んだ。向かい合う形で乗っていたため思わず胸ぐらあたりをつかんでしまった。揺り戻しで七海の上半身を引き寄せる形になってしまい、上目遣いといえば聞こえがいいが、所謂下からガンを飛ばす形になってしまった。
「……服が伸びます」
「あ、ごめん」
 掴んでいた手をパッと離す。思いの外強く握りしめてしまったみたいで七海の制服に皺が寄ってしまった。トントンと胸元を撫でてしわをごまかす。見下ろしてくる七海に度々申し訳ないと頭を下げる。

 電車が緩やかに減速し私たちが下りる停車駅に近づく。
 プシューという音とともに、私たちが追いやられたドア側とは反対側のドアが開く。私たちの周囲の人が動く気配はない。この駅は高専の方面に向かう路線への乗換駅だ。昼間ならまだしも、この時間帯は利用者が少ないのだ。
 七海が前を行き、私も後に続こうと必死になるが、上手く人をかき分けて進めない。七海が通る道にはモーセの海割りのように人が道を開くのに。私には見向きもしてくれない。
「す、すいません、降ります、降ろして……」
あ。無理だ。たどり着けない、と思った瞬間、強い力で手を引っ張られた。
「すみません、通ります」
 振り向いた七海が周囲に声をかけながら先導してくれたおかげで私はなんとか電車から出られた。
「大丈夫ですか?」
「ごめん、東京の電車まだ慣れなくて……」
「気分は悪くないですか?」
「だ、大丈夫……」
「では急ぎますよ。乗り換えまで時間がありません」
「え、」
 満員電車から出て新鮮な空気を吸い込む暇も与えられなかった。
「これを逃すと次は四十分後です」
 七海は掴んだ手を離すことなく、人の少ない駅を早足で急いだ。私と七海では足のリーチが違うので手を引かれている私は小走り状態だ。階段を登って降りて、乗り換えのホームに急ぐ。まもなく発車しますというアナウンスが流れ、電車に駆け込んだ。

 さっきまで乗っていた電車とは打って変わって、がらんとした車内で荒くなった呼吸を整える為と、間に合った安堵で大きく息を吐いた。最後に走ったせいで首筋や額が汗ばんで少し心地が悪い。
「駆け込み乗車はじめてした……」
「……普段は危ないのでしたらダメですよ」
 七海のおかげでなんとか電車に間に合った。ありがとう、と言いかけてまだ七海と手を繋いでいたことに気づく。
 ほんのり汗ばんでいる私と違って七海はさらりとしていた。自分とはあまりにも正反対の様子になんとなく近寄りがたさを感じてしまい七海の手を解こうとした。けれど七海の手はきつくない程度に私の手をしっかりと握っていた。
「あの手……」
「座りましょうか」
 離して、という言葉は座席を探す七海に遮られた。片手で数えられるほどの乗客しかいない車内で特に人がいない座席に二人並んで座った。満員電車では体のどこかしらが他人と触れそうな距離にいたため、ようやく近くに他人がいない空間に人心地が付いた。
「満員電車からの脱出劇お見事でした」
「あのままだとあなた、帰ってこれなかったですよ」
「引っ張ってくれて助かったけどさ、急に手握られたからびっくりした」
 手を握られて恥ずかしい、というよりは堅物っぽい七海がスマートに手を取ったことへの驚きの方が大きい。ここでも経験値の差を感じた。
「仕方なかったでしょう、アレは」
「なんかこう距離感というか……手慣れてたからさ」
「あなたこそ、警戒心が薄いというか距離感近いと思います」
 七海の表情を見るとなぜかむすっと眉間にしわが寄っていた。さっきより深い。
「……でもどこか一線を引かれているように感じます」
「そう……かな?」
 心当たりがないわけではない。私と七海には共通点が少ないし、七海に対して近寄りがたいなぁと思っているもの事実だ。
「私はもう少し、あなたと……仲良くなりたい、と思っています」
 いつもより素直な七海の言葉に目を見張る。気にしないようにしていた繋がれた手に意識が集まる。七海の手のひらは全体的にかさついていて、指の付け根が硬くなっているのがわかる。
「……七海の手、タコがいっぱいあるんだね」
 彼は鉈を振り回して呪いを祓う。その刀身は布でぐるぐる巻きにされており、呪霊をぶった斬るには剥き出しの刀身より力が要るだろう。入学当初の彼の印象はどちらかというと線の細い人だったのに、今は同級の肉弾戦に特化している灰原と共に鍛えているからか、がっしりとした体つきになってきた。満員電車の揺れにもびくともしていなかったし、この硬くなった掌も七海の努力の証だ。私の中のわずかな母性と義侠心が擽られてしまい、思わず七海の手を撫でた。
「そういうところですよ」
「……なんか愛おしいなって思って」
「はぁー……もう少し手、握っててもいいですか」
「いいけど、急速に詰めてくるね」
「開き直りました、もう」
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