地獄の守り人


 何の為に呪術師しているのかな、と思う日がある。今日はそんな日だった。

 補助監督が自宅まで送ってくれるというのをコンビニに寄りたいからと適当な理由をでっちあげ、自宅より幾分か手前で降ろしてもらう。冬将軍が近づいていることを感じさせる外気温だったが歩いて帰りたかった。一人で家にいる時間を少しでも短くしたかった。まだ暗い時間帯だが、街灯とちらほら点いている店の灯りを頼りに通りを行く。

 今日のような同僚を亡くした日は、初めて経験した身近な人の死を思い出す。

 ある日、時間をズラしてくるタイプの呪霊に手こずりながらも満身創痍で高専に帰ると、教室に当たり前にあった三つの机は二つになっていた。椅子に座っていた彼の表情は死んでおり私の好きな碧い瞳は絶望の色を宿していた。七海は呪霊に殺られて半身となった灰原を連れて帰ったらしい。私はあの任務で二人に何があったのか、書面でしか知らない。あまりにも突然の別れに、最後に見た灰原の顔、どんなだったっけ。と記憶の中の灰原を何度も、何度も呼び起こした。
自分が同行していればなんて思ったことは幾度もあったけれど、こうして自分の階級が上がった今でも稀に、任務で殉職者が出る。あの時私がいたとしても、きっと救えなかったのだろうと無力感でいっぱいになる。

 街路樹のなけなしになった色づいた葉っぱを眺めながら歩く。紅葉ってどこから枯れ葉になるんだろうなんてどうでもいいことを考えながらほとんど人がいない通りをふらふらと歩く。シャッターが閉まっている店の合間にコンビニや二十四時間営業の喫茶店の灯が点いている。洩れる光が欠伸をかみ殺す店員や、喫茶店の窓際の席にスーツを着た男性を照らしている。大変だなぁ。こんな時間から仕事かぁ。あぁでも、私もこんな時間まで仕事してたかぁ。とぼんやり歩きながら通りを過ぎようとすると、ふと視線を感じた。職業柄、人や人ならざる者からの視線には敏感だ。くるりと振り向くと、先ほどの喫茶店にいるスーツの男性がなんとなくこちらを見ている気がした。

 遠目からだと表情は窺えないが、スーツの男性は体躯の良い金髪の外国人だった。外国人の知り合いはいないし、気の所為か、と通り過ぎようとしたが男性が顔を横に背けた瞬間、電流が走った。
 通った鼻筋、少し痩けた頬、地毛ならではのくすんだ金髪、間違いない、あれは。そう思った時には突き動かされるように喫茶店に走り寄った。窓ガラスを隔てた距離で見た懐かしい人影は、高専の頃の線の細さはどこへやら、そして顔にはものすごい隈をこさえてた。

 私はなぜかこの機を、逃してはならない。と思った。自分でも恐るべき速さで入店しホットコーヒーを注文してかつての同級生の前に立った。いつも眉間にしわを寄せていた記憶の中の彼が、今は呆気に取られて口を半開きにしている。私自身も驚いている。

「七海……だよね」
 確信を持っていたが、念のため聞いた。
「……はい」と答えたその声は学生時代より低くなっていた気がしたけどやっぱり七海だった。

 勢いのままここまで来てしまったが一応、断りを入れ相席する。ソファに座ったのはいいが、頭より先に体が動いてしまった結果なのだ、この先何を話していいのかわからない。「寒いね」なんて笑って言ってみるが、七海の戸惑いはありありと見て取れた。気まずさを紛らわすため「東京って広いんだか狭いんだかわかんないや、」なんてよくわからない言葉が口に出た。でもほんとにそうなのだ。高専を卒業してから七海に会ったことなんてないのに。どうしてこんな日に限って会ってしまったんだろう。

 メニューも見ずに注文したコーヒーが運ばれてきた。ブラック。どうせ眠れないからちょうどいいや。一口飲んで息を吐く。コーヒーカップを持つ手が震える。寒さのせいか、緊張のせいか。カップを両手で支えながら気を取り直して、七海と向き合った。

「元気だった?」
「えぇ、それなりに」

 めちゃくちゃ濃い隈ついてますが、という言葉は飲み込んで、「なんかデカくなってるから一瞬誰だかわかんなかったー」と言った。

「あなたは……元気そうですね」

 よかった。ちゃんと元気そうに見えたようだ。ほっとしたのもつかの間、カップをソーサーに置いた拍子にガチャンと小さいが乱雑な音が鳴ってしまった。お願いだから手、震えないで。

 がっちりした体躯としっかり刻まれた隈にどんな体力仕事をしているのかと思えばサラリーマンをしていると言った七海。「サラリーマンの出社にしては早くない? 」と思わず口に出てしまった言葉を七海は「まぁ、そうですね」と曖昧な返事をした。呪術師一本で生きてきた私にはそういう仕事もあるんだなと納得するしかない。
「こんな時間に会うなんてねー」なんて言いながら言葉を探していると、七海が「あなたは?」と会話を続けてくれた。自分は任務終わりだと言うと、七海の眉間に少し皺が寄った。

「そうでしたか。お疲れ様です、……ですがまだ暗いんですから送ってもらえばよかったのでは?」
「ううん、今日はちょっと……散歩したい気分だったからさー」
「一人歩きは危ないですよ」

 心配性な七海の言葉に変わってないなぁと感慨に耽る。七海は不器用だけれど私なんかよりもずっと繊細で、いつも小言が多かったけれどなんだかんだで私たちを見捨てるような事はしなかった。高専の時とは違い、一級術師ともなれば“一般的な危険”くらい自分でなんとかできるのだが、まぁ七海が知る由もないし、七海に心配されるのは悪くない。けれど、七海は真剣な顔で「……何かあったんですか」と続けた。

 呪術界の血生臭さを早朝からわざわざ思い出させるのもアレかな、とはぐらかそうと思った。けれどこれっきりで何かが終わってしまいそうな予感がして、あんまり重い空気にならないように、努めて「殉職者が出たんだよねー」と、言った。七海の表情があからさまに固まった。馬鹿だ。言わなきゃよかったと後悔した。流れる沈黙が痛い。

「やんなっちゃうね、ほんとに」

 重苦しい空気にミスマッチな口調になった。ほんとに、自分自身に嫌気がさす。長く感じられた数十秒の沈黙の後、七海は口を開いた。

「たまに……、夢に灰原が出てくるんです」

 淡々とした低めの声で灰原という言葉が紡がれた。懐かしい響きだ。七海と灰原の話をするのはもしかして彼が亡くなってから初めてなんじゃないだろうか。

「うん」

 私は真剣に七海の言葉の続きを待った。

「昨晩、というか今日はその日で。そのまま寝る気にもなれないので、こうしてここに」

 なるほど、どうりでこんな早朝というには暗すぎる時間に居たわけだ。

 私も灰原が夢に出てくることはある。今日みたいになんで呪術師やってるんだっけ、と自分の立ち位置が分からなくなった日、私は決まって高専時代を思い出す。
 目を閉じれば、脳裏に浮かぶ、二つの机、いつも賑やかだった同級生のなんとも静かな最期の顔。死んだ目をした七海の表情。何を言っても無意味な気がして、ただ側にいることしかできなかった自分。
 七海に「呪術師、一緒に辞めませんか」と誘われた時、「私は呪術師になる」と言った。灰原と七海と一緒に過ごしたこの場所を離れたくなかった。七海が呪術師を辞めることは止めなかった。彼と私では経験したものが違うし、これ以上苦しそうな七海を見ていられなかった。それならば、私だけは覚えていなくては。規格外の先輩たちの特訓という名の後輩いびり、沖縄の空港で海を見ることもなく何日も徹夜したこと。夜中の食堂で食べたカップ麺。ばかみたいに大きく口を開けて笑う灰原のことも、眉間にしわを寄せながら何かと世話を焼いてくれた七海のことも。辛いことの方が多かったかもしれない学生生活だったけれど間違いなく青春だったあの短い時間のことを、私は大事に抱えて生きていく。ここにいれば、忘れないから。

 七海が思い出す灰原の姿はどんなのだろう、そんな気持ちで、「灰原、元気だった?」と聞いた。

 私の言葉に自嘲気味に口角を歪めた七海は
「……いや、いつもあの日の夢なので、元気そうではないですね」と言った。

 息が止まった。七海はまだ高専時代のあの日の地獄にいるんだ。

「……灰原を亡くした日のことを繰り返し見てるの? 」
「まぁ、そうですね」
「……どんな風に?」
 我ながら浅はかな言葉しか出てこないなと思う。七海の口からあの日の任務のことを聞くのは初めてだ。

「……灰原と任務に行って、等級が上の呪霊にボロボロにされて灰原の半身が消えて……目が覚めます」
「そっか……」
 あっけない言葉だけれど、私は灰原の最期を目の当たりにしてないから、七海の哀しみを永遠に全うに理解することはできない。このどうしようもない七海との距離に淋しくなる。呪術界を離れてなお、私の知り得ない光景を反芻して、地獄に心を置いている七海が痛々しかった。

 私は意を決して、あの時の七海にかけられなかった言葉を口にした。

「……ねぇ七海、……高専の灰原を思い出せるのは……私たちしかいないんだよ」

 こんな偶然二度とないかもしれないから。お前に何がわかると言われても今言わなければいけない気がした。

「…………」
「……私たちの学生時代は悲しかったことだけじゃないでしょ……?」

 忘れないでほしいと、テーブルに置かれた七海の手に縋る。

「いっぱいあるよ、思い出していこうよ」
「おにぎり食べて幸せそうな顔とかさ、呪霊ぶっとばしてドヤ顔してる時の灰原とかさ、任務終わりのコーラを飲む姿とかさ……思い出そうよ」

 呪術界を離れて、すこしでも穏やかに過ごしてほしいと思い送り出した同級生の顔は、数年ぶりに会ってもなお、あの時と同じ死んだ目をしていた。

「だからさ、そんなシーン、後生大事にリピートしないであげてよ」

 私の手の中にある七海の手は、鉈を振り回していたときのタコが皮膚を固くしていて昔より骨ばって少し冷たかった。

「悲しい記憶で思い出すのは灰原が不憫だよ」

 自戒の意味も込めて、七海に届けばいいと思って呟いた。しばらくしてから握り返された手に私はわずかな希望を見出した。

 店を出たら外は明るくなっていた。七海は今から出勤だという。今の私たちの生活リズムは正反対なのに、お互いのイレギュラーが重なった結果、偶然再会するなんて。これはもしかして灰原が引き逢わせてくれたのかも、なんてことを思った。

 私は七海に全然使うことのない名刺の裏に電話番号を書きつけて渡した。連絡してね、とは言えなかったけれど、また会えるといいなと願いを込めた。私は七海の番号をずっと消せないままでいるけれど、七海はどうかわからないから。
「じゃあ、ね」と手を振って七海とは反対方向の道を行く。高専時代に置いてきた小さな後悔が夜明けとともに空に溶けた気がした。
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