地獄の沙汰も君次第


 この光景を脳裏から剥がしたい。こびりついて離れない。脳みその襞に染みついてしまっている。この記憶はもう己の一部となっているのだ。

 たまに、眠れない日がある。トラウマ、とでもいうのだろうか。同級生を亡くした日の記憶が夢となって現れるのだ。夢にうなされて起きる、なんて夜は当の昔に乗り越えた。夢現の区別がつくようになってからは記憶の中にいるかつての同級生の姿に懐かしささえ覚えた。それがたとえ悪夢だとしても。
 しかし同級生の半身が消えた瞬間、その夢は終わる。目が覚める。現実に引き戻されてしまえば、睡魔は消え失せてしまう。体は睡眠を欲しているが、醒めてしまった脳で急ぎでない仕事を終わらせたり、外国株を買い足したり、売り払ったりして夜明けを待つ。ちなみにこういう時に株の取引をするのはおすすめしない。たいてい損をするからだ。

 昨晩はその日だった。あいにく持ち帰れる仕事はもうない、株価も落ち着いている。朝日が昇るまでの数時間、出勤するには早すぎる。しかし家で一人で過ごすには少々気分が薄暗い。全くもって、夜と朝の狭間を持て余してしまっていた。

 早朝というには闇が深いこの季節の空模様。結局出勤準備をして家を出た。近所の二十四時間営業の喫茶店で珈琲を注文する。都会は眠らない。いつでも、どんなときでも変わらずそこにあるという事実が多少気分を紛らわせてくれる。

 窓際に面したソファ席に座り、依然明るくなる気配のない東の空を眺めながら珈琲を飲む。なみなみと注がれた黒い液体に燻ぶる感情が溶け出していくようだった。新聞も読む気になれず、手持ち無沙汰にボーっと外を眺めていると、店先のまだ人が疎らな通りを女性が一人、ふらりと歩いていた。もうすぐ夜明けといえど、少々危ないのではないかと勝手に心配をしていると、その女性がくるっと振り向いた。見ていたことを悟られないように平静を装い、すーっと視線を滑らせる。しかし、視界の端にいる女性はまだこちらの様子を窺っているようだ。明るい店内からだと顔が逆光で見え辛いがおそらくそうだ。カップに口づけて顔を逸らす。するとようやく女性が動いた。と思えば、駆け足で喫茶店の窓辺に突進するが如く寄ってきた。ぎょっとして窓ガラスを隔てた女性の顔を見た。店内から漏れる光に照らされたその顔はかつて地獄に残してきた、もう一人の同級生だった。

 彼女は目を大きく開いてこちらを凝視している。かくいう自分も口を開いた間抜けな表情が窓ガラスに反射していた。先に動いたのは彼女だった。ぶつかり合った視線が逸らされ、走って消えた。あっけにとられ、幻かと思っていると入店を知らせるメロディが鳴り、早朝の静かな喫茶店に急いた足音が響いた。すれちがった店員にホットコーヒーを注文して、彼女は再び私の目の前に現れた。

「七海……だよね」
「……はい」
「ここ、いい?」

 対になったソファを指差し、断る隙を見せない彼女の勢いに押され「はい、」としか言えなかった。

「寒いね」
 先程の気迫はどこへやら、へらりと笑ってそう言う彼女に、卒業して以来の偶然の再会に驚きを隠せず「まぁ、」と生返事を返した。
「東京って広いんだか狭いんだかわかんないや、」
 彼女が独り言のように呟く。

 高専を卒業して以来東京に住んではいるが高専関係者とすれ違うなんてことはほとんどなかった。彼女と会ったこともなかった。運ばれてきた珈琲に口をつけ、一息吐いてこちらを見た彼女は、学生時代の面影はあるものの、ややほっそりして幼さが抜けた大人の女性になっていた。どうりですぐに気づかなかったわけだ。

「元気だった?」
「えぇ、それなりに」

「なんかデカくなってるから一瞬誰だかわかんなかったー」と笑う彼女に「あなたは、元気そうですね」と返す。

「そう見える?」とにんまりと口角を上げた表情、久しぶりに会った年月を感じさせないあっけらかんとした口調と、ガチャンとソーサーとの距離を見誤ってカップをぶつける粗野な仕草に学生時代の彼女を思い出す。多少淑やかな風貌になっても節々から懐かしさがこみ上げ感慨にひたる。

「なんでこんな時間にいるの? 今何してるの?」
「今はサラリーマンです」
「サラリーマンの出社にしては早くない?」
 あけすけとした物言いに、変わってないなと思う。

「まぁ…そうですね」
「こんな時間に会うなんてねー」と言う彼女に、人が疎らな時間帯だからこそ偶然見つけられたのかもしれない、と思う。東京はなんせ人が多い。

「あなたは?」
 まだ呪術師をしているのか、とは言わなかったがこんな時間に起きているのだからおそらくそうなのだろう。

「私は任務帰りだよ」
「そうでしたか。お疲れ様です、……ですがまだ暗いんですから送ってもらえばよかったのでは?」
「ううん、今日はちょっと……散歩したい気分だったからさー」
「一人歩きは危ないですよ」
「ちょっとー、私これでもそんじょそこいらの男は片腕で伸す自信あるよ?」
ケラケラと笑っているが、先ほどまで通りを歩いていた彼女はどこか上の空でフラフラとしていた。だから目に留まったのだ。

「……何かあったんですか」
 出過ぎた真似かと思ったが言わずにはいられなかった。

「うーん、ちょっとねー、疲れてるのかな」
「話せなければ別に……」
 やはり呪術界から離れた自分が口を出すべきことではないと会話を終わらせようとした。

「いや、違うんだけどね…」
 彼女は横目でちらりと周りの様子を窺った後、頬杖を突きながらなんともないような声色で「今回の任務、殉職者が出たんだよねー」と言った。

 鳩尾を掴まれるような気分がした。
「……そうですか」
「やんなっちゃうね、ほんとに」
 軽い口調の彼女に自分との温度差を感じる。彼女はもう、そういう感覚が麻痺してしまっているのだろうか。今でも、灰原を思い出したりするのだろうか。

 灰原を亡くした時、彼女は任務には同行していなかった。しかし灰原を亡くした後の私を一番近くで見ていた。黙って側に居てくれた。言葉にせずとも想いは共有できているはずだった。だから彼女もこんな地獄、ウンザリだろうと思い「呪術師、一緒に辞めませんか」と誘った。けれど彼女はあっけらかんと笑って「私は呪術師になるよ」と言った。私は理解者だと思っていた彼女に裏切られたような気持ちになり、腹が立った。彼女は任務にいなかったから、灰原の死を目の当たりにしたわけではないから、どうせわかりあえない、と。今思えばショックだったんだと思う。それから大学進学を決めた自分と、呪術師になるべく修練に励む彼女と、目指す場所を違えた私たちには自然と距離ができた。その距離が今一度、垣間見えた気がした。

「たまに……、夢に灰原が出てくるんです」

 久しぶりに声に出した名前。高専関係者とはほとんど連絡を取っていないため、こんな話をする相手もいなかった。そして彼女と話すつもりもなかった。だけど、久しぶりに見た夢のせいか、もしかしたら灰原が彼女と引き合わせたのかもしれないと、柄にもないことを思い自然と言葉が出てしまっていた。

「うん」

 彼女は動揺することもなく真っすぐな眼差しで話の続きを促した。

「昨晩、というか今日はその日で。寝る気にもなれないので、こうしてここに」

 合点がいったという表情で頷いた彼女は「灰原、元気だった? 」と言った。

「……いや、いつもあの日の夢なので、元気そうではないですね」

 目の前で灰原が死んだ日のこと、目を閉じれば鮮明に思い出される。一生忘れることができない光景だ。夢に見るたび、こびりついて離れない。

 彼女は息を呑んだ。

「……灰原を亡くした日のことを繰り返し見てるの?」

 驚いたように目を開く彼女にそれ以外に何があるといった気持ちになる。

「まぁ、そうですね」
「……どんな風に?」
「……灰原と任務に行って、等級が上の呪霊にボロボロにされて灰原の半身が消えて……目が覚めます」
 報告書にも書いたことだが、言葉にすると一瞬だ。あの地獄は、筆舌に尽くしがたい。
「そっか……」とどことなく悲しそうに目を伏せた彼女は一呼吸置いて珍しく遠慮がちに口を開いた。

「……ねぇ七海、高専の灰原を思い出せるのは私たちしかいないんだよ」
「…………」

 そうだ、だからこうして夢に見るんだ。灰原を忘れないために。

「……私たちの学生時代は悲しいことだけじゃ、なかったでしょ?」

 彼女の言葉に学生時代を思い出そうとする。その時初めて気が付いた。私は、灰原の笑顔をほとんど思い出せない。

「…………」

 彼女の手がテーブルに投げ出していた私の手を覆った。彼女の手の温かさに、自分の手がいかに冷えていたのかを自覚する。

「いっぱいあるよ、思い出していこうよ」

「おにぎり食べて幸せそうな顔とかさ、呪霊ぶっとばしてドヤ顔してる時の灰原とかさ、任務終わりのコーラを飲む姿とかさ……思い出そうよ」

 その言葉でようやく朧げに灰原の笑顔が浮かんだ。隣で笑っていた彼女のことも。

「だからさ、そんなシーン、後生大事にリピートしないであげてよ」

 彼女の視線は重なった手に向いていた。光が集まって見えるのは彼女の眼が潤んでいるからだろうか。

 高専を出てからもうすぐ四年が経とうとしている。毎日カネのことだけを考えて、時々思い出したかのように同級生の死に様を脳に焼き付けて、生き残った目の前の同級生には呪詛の言葉を募らせた。地獄から逃げたはずなのに、どんどんと膨らむ負の感情。時間とともに薄れていったのは地獄の光景ではなく幸せだった日々の記憶だった。

「悲しい記憶で思い出すのは灰原が不憫だよ」

 地獄に置いてきた彼女の方がよっぽど灰原のことを大事に弔っていた。分かった気になっていた。あけすけな物言い、あっけらかんとした性格、どうせ彼女にはわからない。彼女も自分と同等の傷を負っているに違いなかったのに、彼女と距離を取ってしまった。

 私たちは話すべきだった。共に弔うには遅すぎるけれど、灰原のことを、話すべきだ。少し震えている彼女の温かい手を離さないように握り込んだ。

 店を出れば、朝というのにふさわしい明るさで、既に街が動きだしていた。そろそろ出勤しても問題ない頃合いだ。いったん自宅に帰ると言った彼女は、懐から名刺を取り出して裏に電話番号を書いて私にくれた。表を返してみると、名刺の肩書には一級呪術師と書かれていた。そこいらの男は片腕で伸すと言っていた言葉はあながち冗談ではないのだろうなと、地獄の中でしたたかに生きる彼女が眩しく思えた。

「じゃあ、ね」
と彼女は明るんだ空の下を歩いて地獄に戻っていった。

 あの日の地獄の光景は脳裏から離れることはないけれど、忘れていた、己の一部であるはずの高専時代の日々を思い出そう。そして次の墓参りには彼女も誘おうと決めた。
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