私の好きなもの


 これでもかと予定を詰め込まれた短期出張の帰り、一息つく間もなくそのまま高専で経費の申請やら報告書の作成やらとこなしてきたが、そろそろ体が限界なのか目がかすんできた。一息入れるか、と休憩室の扉を開けると奥のソファに見慣れたくすんだ金髪頭を捉えた。
自分用のコーヒーを注れながら、奥に座る人に「お疲れ様」と声をかけると、こちらを見ることなく「お疲れ様です」と返ってきた。

「コーヒーいる?」
「……いえ、結構です」

熱々のコーヒーと誰かからのお土産や差し入れが入った善意のお菓子BOXから最近お気に入りの焼菓子を手に取る。奥のソファに向かうと、いつもは経済新聞、時々英字新聞を読んでいる七海が今日は珍しく文庫本を開いていた。なんとなく正面ではなく七海と対角線にあるソファに腰を下ろす。

「珍しいね、今日は新聞じゃないんだ」
「もうすぐ読み終わりそうだったので」

 彼がぺらりと頁を捲る姿に物懐かしくなる。学生時代の彼は暇があれば本を開く本の虫だった。読書によって蓄えられた豊富な語彙はちょっとした諍いやしょうもない言い合いでさえも発揮され、私と灰原はいちいち出てくる聞き慣れない単語の意味に頭を捻り、いつの間にやら怒気を抜かれていた。

「今でも結構本読むの?」

ピリッと焼菓子の袋を開けながら口を開く。フィナンシェからバターの香りが広がって、ほぅ…とため息がでる。

「昔ほどは。寝る前に少し開いたり、休みがあればその時に読みます」

本に目線を落としたままそう答える七海は、おそらく今物語の佳境なんだろう。

「ふーん」

七海の読書の邪魔をしないように静かにコーヒーを啜り、フィナンシェをモソモソと咀嚼しながらぼーっと七海の読書する姿を眺める。レザー調のブックカバーが着けられた文庫本は七海の骨張った大きな手に収まり余計に小さく見えた。私はそこからしばらくスイッチが切れたように頁を捲る七海の手を見つめていた。

 私は七海ほどではないが読書を嗜む。といっても私が本を読みはじめたのは偏にこの男の影響だ。
学生時代の七海は今よりもっと無愛想で、コミュニケーションを取るのも儘ならなかった。灰原はそうでもなかったようだけど、私は同い年の男子との共通の話題もよくわからず、七海との会話は少なかった、ように思う。少しでもこの男の考えることが理解できたら、なんて若すぎる動機で「何の本読んでるの?」と話しかけたら、その本を貸してくれたのがきっかけだ。宿題の読書感想文以外では漫画しか読んでこなかったが、存外これが面白く、七海とはいつのまにか本の貸し借りをしたり、本の感想を言い合ったりするようになった。七海が受験勉強を始めた頃にはその慣習もいつのまにか無くなってしまっていたけれど。

疲れ切った頭が現実逃避に昔の記憶を再生していたことに気づき、少し冷めたコーヒーをちびちびと飲み進めた。七海は同じ部屋にいる私のことなど気にする様子もなく黙々と文字を追っている。太陽が傾きはじめた休憩室は静かで、時折七海が頁を捲る紙の音がした。

:

 ふと、気がつくと先程まで西日が入っていた休憩室が薄暗くなっていた。時計を確認すると太陽が沈んでまだ間もない時間だった。
いつのまに寝てしまっていたのだろう。コーヒーを飲んでいたのに寝落ちてしまうなんて年々カフェインが効かなくなってきているようだ。
眠っていたのはおそらく数十分程度で、ぐぐっと両手を伸ばしてコキコキと首を鳴らした。一息吐くとお腹辺りから膝までを覆うベージュのスーツの上着が目に入った。見慣れたその上着へ徐に手を伸ばすと張りのあるそれでいてしっとりと体に馴染む上等な生地だった。上着からほんの少し甘い重厚感のある香りがふんわりと漂う。まだなんとなく持ち主の体温が残っている気がするが、上着をかけてくれたであろう当の本人はもうこの部屋にはいなかった。

 うっかり長時間休憩してしまったな、とスーツを持って休憩室を後にする。あと少しだけ残っている書類仕事を終わらせてさっさと帰ろう。明日は久しぶりの休みだ。
その前にこのスーツを返さなければと、とりあえず事務室の方に向かうと、事務室の前の廊下で補助監督と七海が軽い打ち合わせをしていた。

 私に気づいた七海が「では後ほど」と会話を終わらせた。「車を回してきます」と七海から離れた補助監督がすれ違いざまに会釈して「お疲れ様です」と声をかけてくれたので私も同じように返す。
事務室の前で私と目を合わせたまま動かない七海に近づく。

「これから任務?」
「ええ。明け方までには終わるといいのですが」

皺にならないように持っていたスーツを七海に返す。
「これ、ありがとう」
「あぁ。はい」

片手で上着を受け取った七海は上着を羽織らずそのまま腕にかけた。もう片方の手には先ほどまで読んでいた文庫本があった。
何の本だったのだろう。丁寧にブックカバーをかけられた本からはタイトルを知ることはできない。私はカバーをつけるどころか読みにくいからといって表紙も取って剥き出しのまま読むこともあるので、この男はマメだなぁと思う。

「本は読み終われた?」
「ええ、任務前に読み終えられて良かったです」
「続きが気になって集中できなくなるもんね」

私の軽口にそんなわけないだろうという表情で七海は笑うわけでもなく息を吐きだした。

「あなたは明日オフですか?」
「うん、だから今日のうちに書類仕事全部終わらせなきゃ」
一眠りしたから目のかすみもだいぶ楽になり、この分だと残りの仕事もすぐに終わらせることができそうだ。

「これ。……読みますか?」

先程まで七海が読んでいたブックカバーがつけられた文庫本が差し出される。
七海の顔を見て、もう一度本に目を落とす。
その一言が懐かしくて、嬉しくて何の本かもわからないのに、その言葉に頷いた。

「うん、読みたい、貸して」

七海が読んでいたから読む、単純すぎる自分の行動に学生時代から変わってないなと苦笑いが溢れる。
手渡された本のカバーをそっと撫でる。使い込まれているようで所々飴色になってツルッとしている。

「カバー外そうか?」
「そのままでいいですよ。私が次の本を選ぶ前に、貴方は読み終わりそうだ」
「そうかな?」
「いつも早かったじゃないですか」

学生時代の頃の話が七海の口から出てきて少し目を張る。あの時は早く七海と本の感想を言い合いたくて寝る間も惜しんで読んでいただけなんだけどな…。と思いつつそんなことは口には出せず曖昧に笑っておいた。

「私は何度か読んでいるので返すのはいつでもいいです」
「わかった。帰ってきたら返すね」
「感想も聞かせてください」
「うん、気を付けてね」

七海は手早くスーツを羽織って「いってきます」と言って出入り口に向かっていった。

:

 残りの書類仕事を猛スピードでこなし、家に帰って食事とお風呂も済ませた。今日は録画してたドラマも映画も見ない。カバンから七海に借りた本を取り出した。
ベッドのヘッドボードに背をもたれ、本を開く。
あの本だ、と思った。最近話題の小説や堅苦しい実用書でもなく、名作と言われているファンタジー小説だった。そして、私と七海が本の貸し借りをするきっかけになった本。

七海は何度か読んでいると言っていた、そのせいか紙はところどころ擦れている。
頁を捲ると微かに七海のスーツと同じ匂いがする。
自宅に長年保管されていたようで、七海の匂いが少しだけ紙に残っている。

少し折れてしまっている頁やブックカバーの感触にここには居ない七海の存在を感じてなんとも言えない気持ちになる。大事にしている本なんだなと、懐かしくなり口角が緩く上がっていた。

:

「本、ありがとう」

休み明け、あっという間に読み終わってしまった本をいつも通り新聞を読んでいる七海に返す。七海の目の下には隈ができている。あぁ明け方には終わらなかったんだな、そしてそのまま徹夜したかなと考える。

「どうでした?」
「うん、おもしろかったよー」
あと懐かしかったと付け加える。

「……七海覚えてる?あの本前にも七海に借りたことあるんだよ」
「覚えてますよ、忘れるわけない」

忘れるわけないんだ……と心の中で七海の言葉を反芻する。
七海はどこか懐かしそうにサングラスの奥の目元を緩ませている。

「貴方が本の感想をあんまり楽しそうに話すので、気がつけば貴方が好きそうな本ばかり探してましたね」
「……そうなの?」

たしかに、七海の貸してくれる本はハズレが少なかったな、と思い出す。

「私は結構、貴方の好みを知っていると思いますよ」
「……ほんとかなぁ?」
いつもの四角四面な七海と漂う雰囲気が少し違う。心がざわつく。僅かな期待が募る。
「試してみますか?」
「また本の貸し借りでもする?」
「それもいいですけど、今はもう少し違う手段がありますよ」
七海は私のお気に入りのフィナンシェのお店の袋を差し出し、「まずは手始めに、」と言った。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -