高専内の職員用更衣室で膝下丈のフレアワンピースに着替え、仮初の上品さを身に纏う。
スーツをハンガーに吊るし消臭スプレーを振りかけて、自らには仕事中はつけない香水をシュッと振りまく。耳には小ぶりのピアスをつけた。
置いてある姿見で身嗜みを整えると、そこにはどこか薄暗い更衣室には似つかわしくない、いつもの黒ずくめのスーツより随分と華やかな自分が写っていた。
基本的に高専と自宅との往復のためにいちいち着替えるのも面倒だからと普段はスーツのまま帰宅するし、緊急時の替えとして予備のスーツを置いているくらいで、いつもは更衣室には寄り付かない。
ただ今日は、仕事終わりの大事な予定のために自宅からワンピースに靴、アクセサリーと香水までおめかしフル装備を持参して出勤していた。
つい数日前までは繁忙期で高専で夜を明かすことも少なくなく、家に帰っても寝るだけ、起きたらまた代わり映えしない真っ黒のスーツで出勤、と色のない生活をしていたため、久しぶりのおめかしに少し気分が浮き立っている。
「あ、忘れてた」
もう一度ロッカーを開け、ヒールを取り出す。いつもは走りやすく運転しやすい実用重視の靴を選んで履いているため、見た目重視の可愛い靴を履くのは久しぶりだ。気持ち程度の低めのヒールだがそれでも少し上がった視野とともに自分のテンションも上がっていく。
「よし、いい感じに擬態できてるんじゃない?」
ロッカーを閉め、もう一度姿見で確認する。
この日のために新調したワンピースと靴のおかげで、呪術界の薄暗さや血生臭さは一掃されて、この仕事特有の不規則な仕事時間でこさえたうっすら隈も前日の丁寧なスキンケアで吹き飛んでくれた。うん、そこそこ華やかで上品なOLって感じだ。
本当に必要最低限しか入らないような小さなバッグに貴重品とハンカチとリップを入れて…あ、スマホがない。
どこに置いたっけとしばし思案して、パソコンに挿して充電していたことを思い出した。
この格好で事務室に戻るのは憚られたがスマホがなければこの現代社会一日と生きてはいけない。着替え直す時間も惜しい。背に腹はかえられん、よしっと息を吐いてからそっと扉を開いた。
しかし更衣室を出て十歩もいかないところで今一番会うと面倒、いや普段から面倒くさいことこの上ない人間の声が背後から聞こえた。
「あっれー?誰かと思ったら。そんな格好してどこ行くの?デート?誰と?」
「……最悪だ」
私の呟きが聞こえてないのか聞く気がないのか五条さんは好き放題言ってくる。
「えーお前、私服そういうタイプなんだー。僕はもっとこうガバッと開いた服が好きだなぁー」
「素直に褒めてくださってもかまわないんですよ。あと五条さんの好みはどうでもいいです」
「そんな小さい鞄になに入れてんの?もうちょっといい鞄持ちなよー?」
「マウントとるお局みたいなマネやめてください。それに特級術師と一補助監督の給料差舐めないでください」
「僕もともとお金持ちだからわかんないなー」
ご丁寧にぶりっ子ポーズで言われても憎たらしさしか募らない。
「チッ…ボンボンめ。……すみませんが私急いでるんで。失礼します」
「ねえお前今舌打ちした?僕に舌打ちできるのお前と七海くらいだよ?」
そそくさと早歩きでその場から離れる。あの人も一応忙しい身だから追ってはこないようだった。
要らぬ足止めを食ってしまった。さっさとスマホを回収して駅に向かわねば。ギリギリ間に合うかどうかといったところかな……。
事務室に入る前に少しだけ戸を開け中の様子を伺う。幸いなことに今は殆ど人がいなかった。だが隅に置いてあるソファに人影が一つあった。
こちらには背を向けているし、サッと行けばバレずにいける気がする。
一応潜めた声で「……お疲れ様でーす」と声をかけてから静かにドアを開けた。
声が返ってくることはなかった。しめた、と思いさささっと自分のデスクに向かう。横目でチラッとソファの主の様子を伺うと座っていたのは七海さんだった。
任務終わりなのであろう、テーブルには空の栄養ドリンクの瓶と七海さん愛用のサングラスが置いてあり、目は閉じられていた。今日は徹夜だったのかな。
起こさないうちにさっさとスマホを見つけて帰ろう、早くしないと約束の時間に遅れてしまう。
しかし、てっきりデスクの上にあると思っていたスマホがない。充電してたはずだし、他に心当たりはないけどどこかで落とした…?でも私用のスマホは外では出さないし…とデスクの周りを見渡していると、ソファの人影が動いた。
「探し物はこれですか」
首だけ此方に振り向いた七海さんは片手に私のスマホを掲げていた。起きてたんかい。
「ありがとうございます、探してたんです」
返してもらおうとソファに向かい、七海さんの前に手を差し出したが七海さんは動かない。それまで静かに座ってこちらの一挙一動を見ていたと思えば急にスッと立ち上がり、視線が一気に見下ろされる形になった。
「いつもと随分、雰囲気が違いますね」
「すいません、TPOを弁えない格好で……」
「どこかに出かけるんですか?」
「あ、はい、約束があって……」
こんな日に限ってやたらと絡まれるな…。
電車の時刻が迫ってるし早く切り上げたいなとチラリと時計を見た。
「送りますよ」
「え、七海さんお仕事中じゃ……」
「今日は待機なので、もう定時です」
「でも徹夜明けですよね?早く帰ってお休みになったほうがいいですよ」
「仮眠をとったので大丈夫です、送ります」
「いえ、タクシー拾うので……」
「その靴じゃ山を下るのも大変ですよ、送ります」
「ほんと大じょ…」
「送る」
「……じゃあお願いします……」
「承知しました」
七海さんの親切に押し切られる形で渋々提案を受け入れたところ、「じゃあコレ、」と言ってようやくスマホが手渡された。七海さんはテーブルに置いてた空き瓶を処分してサングラスを掛けて扉の方に向かっていった。
誰かさんのせいで常々オーバーワーク気味の七海さんに徹夜明けで疲れているところ運転を任せるのは申し訳なかったけど、これ以上押し問答を続ける時間が勿体なかった。
それにこれ以上断るのは失礼にあたる…のか?と思いご好意に甘えさせていただく。
七海さんには学生時代からいろいろとお世話になっているが、こうして私が補助監督として立派にやっている(つもり)でも何かと目を掛けてくれている。
高専内の駐車場には公用車と自家用車が数台停まっている。その中で車にさほど詳しくない私でもわかる外国車の前で七海さんは脚を止めた。
「どうぞ」
ご丁寧に助手席の扉までエスコートされ、恐縮してしまう。
「お邪魔します……」
カチリとシートベルトを留め前を向くと、普段運転している公用車より少し低い車高から見える景色が新鮮だった。
「目的地は?」
「? 駅までで大丈夫です」
「この時間なら車で行く方が早いでしょう、で、どちらに」
「…じゃあ〇〇ホテルで……」
カーナビを操作する指が一瞬止まったような気がして、七海さんの顔を伺ったが、またすぐに操作に戻っていた。若干左眉だけ上がっている気がするのだがどういう心境なのだろうか。
高専の敷地を出て、法定速度をきちんと守った七海さんらしい安全運転で車が走る。カーナビによると目的地への所要時間は三十五分。渋滞が起こらなければ十分、間に合う時間だ。
「お疲れのところすみません」
「いえ、気にしないでください。一人で運転するより貴方がいるほうが眠たくならずにすむので」
それもそうか、と思いつつ、この人は恩に着せない気遣いが本当に上手だな、としみじみ尊敬する。
「七海さんは信用もできるし信頼もできるし尊敬もできるとってもいい先輩です、ほんとーに」
「……なんですか、急に」
「急じゃないです、いつも思ってます、五条先輩と会った日なんて特に思います」
先程のやりとりを思い出して、七海さんと五条さんを比べて、天と地、月とスッポン、雲泥の差、など頭にポンポンとそれらしい言葉を浮かべる。
「…五条さんに会ったんですか?」
「更衣室を出たところで捕まっちゃいました」
「チッ……」
「ファッションチェックが入って、もっとガバッと開いた服が好きとか、もっといい鞄を持てとか好き勝手言ってましたよ」
「……私はそういう格好も好きです」
「あ、ありがとうございます…」
前方の信号が黄色になったのを見計らって車がゆっくりと減速する。なんとなく視線を感じ、運転席を見遣ると七海さんと目があった。
「髪型もいつもと違う」
「普段はまとめてるので…」
「ピアスもつけてる」
「今日は丸の内OLっていう設定で華やかめに……」
「なるほど」
尋問のような目敏い指摘に、こっ恥ずかしいような気持ちになる。しかし車内はどことなく張り詰めた空気が漂っている。BGMがないからなのか、七海さんは運転中ラジオとか点けないタイプなのかな。
信号が青に変わり、またゆっくりと発進する。素晴らしいくらいの安全運転だ。私より確実に運転が上手い。
「つかぬことをお聞きしますが、今日はどういったご予定で?」
「同窓会です、中学の時の。東京にいる子だけですけど」
「なるほど」
「久しぶりに会える子もいて、仕事のことは言えないけどOLという設定でいこうかなと……」
「女性の友達ですか?」
「? ……女性です」
「……男もいますか?」
「いますよ」
「へぇ……」
スマホで時刻を確認したところ、約束の時間には余裕で着きそうだ。電車だと慣れない線に乗り換えなきゃいけなかったし、遅刻だったかもしれない。七海さんに送ってもらえてよかった。
「時間がわからないと不便でしょう、どうぞこれを」
目的地のホテルが見える最後の交差点の赤信号で停車中、七海さんは腕時計を外して渡してきた。
「スマホあるし、いいですよ」
「どこかに置き忘れたら大変でしょう、さっきも探してた」
「でも落としそうだからいいです……」
それに高そうな腕時計だし着けてる間も絶対落ち着かない。
「丈夫な時計なので落としても大丈夫です」
そういう問題ではないのでは……と思いつつ、腕を通してみるとやっぱりブカブカだ。
「ブカブカです」
ほら、と腕を差し出す。
「多少緩いくらいでしょう。服の上から着けて」
私の差し出した腕を取り、仕事中付けている場所より肘側でベルトをパチリと留め、膝の上に返された。
先程よりかは確かにズレにくくはなったけどそれでも緩い。それに、こんな目立つ様に男物の時計を着けていたら同級生からなにを言われるか。あとでこっそり外して傷つけないようにバッグにしまっておこう。
約束の時間の十分前、ホテルの正面玄関に車を寄せて停車した。ホテルのドアマンがこちらに向かってくる。
「ありがとうございました、おかげさまで間に合いました」
「どういたしまして。なんならご友人にご挨拶でもしに行きましょうか?」
「いやいやいや、どういう立場で?」
「もちろん、今は同僚としてですが。いつもお世話になっておりますと」
「いえお世話になっているのはこちらの方……じゃなくて友人に挨拶する同僚ってなんですか。ほんと勘弁してください、ややこしくなりそうなので」
「冗談です、楽しんでください。……時計外さずにつけてくださいね」
見抜かれてた。走り去る車に手を振ったその腕につけられた七海さんの腕時計の重さに、なんだか背筋がぞくりとした。