#04
「……先生。有難う御座いました」
「いいのよ。それにしても怪我が無くて良かったわね」
「はい…」
もう一度、有難う御座いましたと告げて俺は保健室を出た。
運が良かったとしか言いようがなかった。
あの後すぐに俺を突き飛ばしたデカイ生徒が入って来て、舌打ちをしながらも跡部は離れていった。
今考えればタイムリミットだったのだろう。お陰で俺はあの部室からスーツを持ち出し逃げることが出来たんだ。
ただ、引き千切られたボタンはそのままその場に捨てて来てしまったけれど。
だらしない格好のまま教壇に立つことが出来ない。だけど替えのボタンもそう無ければ縫い付けるものもない。
そんな時にたまたま校医に会ったのはラッキーだった。ソーイングセットを借りてボタンを縫うことが出来た。
でも本当のことなど話せず…シャツは何処かに引っ掛けてしまったと嘘を吐いてしまった。暗い面持ちで、自分が情けなくて。
今日の授業は3時間目からだ。頭を切り替えないといけない。
職員室ではとてもじゃないが落ち着けず社会科資料室に閉じこもって初めての授業の準備を始めた。
そう、赴任したばかりで授業もこれが初めてなのに…それなのにとんでもない生徒と遭遇するなんて…思いもしなかった。
……何がいけなかったのか。全てはあの日、見て見ぬフリが出来なかったのが悪いのか。
こんな状態で教師としての威厳が保てるだろうか。
とにかく目を覚ませと自分に言い聞かせながら何度も頬を叩けば鈍い痛みが少しだけ残る。
昔のような気合いの入れ方はもう忘れてしまった。だから切実に、自分の心に言い聞かせるしかなかった。
「じゃあ、今日はここまでな」
長い長い授業。生徒よりも自分自身が切羽詰まってた気がした。
一応、ここからここまで、と今日の範囲を決めて掛かった授業だったが思いの外進んだ気がする。
というのも、この学年ともなると落ち着きすぎて授業を妨害する者などなく真剣に話を聞いてくれる生徒が大半だ。
逆に怖いまでの視線を感じ、何度も「質問はないか?」と尋ねた自分が恥ずかしいくらいに。
「せんせー」
「あ、君は…」
芥川慈郎、だったよな。窓際の一番後ろの席で睡魔と闘ってた生徒。
メリハリのない授業なもんだから退屈なんだろう、とは思っていたが…それどころじゃなくてスルーしちまったけど。
「ねえ先生ってテニス部の顧問になるってホント?」
「え?」
「俺ね、先生が顧問するって聞いてマジ驚いちゃったCー」
「え?ちょっ、俺その話…」
聞いた覚えもなければ承諾した覚えもない。引き継ぎもしてないんだけど。
「違うのー?」
「悪いな芥川。俺は――…」
「ジロー、先生を困らせるな」
……跡部。
「今はあくまで顧問候補に挙がっているだけのこと。先生…後ほど学園長からお話があると思います」
「……そうか。だがな、俺では実力不足だ。そのことは跡部、お前が一番知っているだろう?」
足元にも及ばなかったのだから、と本当のことであり皮肉でもある言葉を付け足せば彼は表情も変えず首を横に降った。
まあ…ここで「そうですね」なんて言った日には俺としても完結出来て良かったのだが、それをあっさり奴がさせるとは思えなかった。
何処か、筋書き通りの会話。それが酷く気持ち悪くて虫唾が走る。
「あれでポイントが取れた選手は数人しか居ません。先生がその中の一人です」
「あー確かに。あの技が出て返せた人ってー…ウチには居ないねー」
「1ポイントも先生が取れなければ俺は推薦してません」
「……跡部の推薦、だったのか」
顧問が不足しているから穴埋め、という話じゃない。意図的に仕組まれている、ということか。
そういえば…氷帝テニス部に「顧問」などという肩書きの教師は必要なかった。あくまでテニスの出来る人物を立てておけばいいという方針。
教師であればそれはそれで良い。別に外部から「監督」を招き入れても良い。勿論、監督兼選手の生徒でも構わない。
そうだ、全国大会連続出場を果たし続けた結果、この部だけは無法地帯で優遇されているんだった。
「ええ勿論。今は俺が監督なのですが、やはり目が行き届かずに指導不足もあります」
「それで…顧問か?」
「不服でしょうか?そんな理由で駆り出されるのは」
「そうは言ってない。跡部も色々と大変だったろうと思う」
「では先生が…」と話を続けようとした跡部を制止させた。そう、何も今ここで返事をすることはない。
「けどな、やっぱり俺では力不足だ。指導力に欠けるよ」
「そんなことは無いと思うのですが…」
「とりあえず考える猶予はもらうよ。学園長からも話を聞かないと」
ハッタリかもしれない。と、頭を過るまでにそう時間は掛からなかった。俺より先に生徒に知れ渡ることがおかしい。
言い出したのが跡部であるならば余計だ。この件は確かなものとは思えない。それに孤立した部にわざわざそんな通達を誰が行うだろうか。
学園長が?いいや、そんなことは無いだろう。あの方は忙しい身でそう部内を巡回はしないだろう。だったら他の教師が?それもない。
俺にすら通達の無い状態でそれを知った教師が俺に一言も話さずに終わるとは思えない。
「そうですね。じゃあ…良い返事をお待ちしています」
フッと笑う跡部の横顔に悪寒が走る。
「じゃーねーせんせー。俺も楽しみに待ってるねー」
「……あまり期待はしないでくれよ」
ブンブン手を振る芥川に溜め息を吐いて俺も彼らに背を向けた。