#03
その日は眠れぬ夜を過ごし、翌日には大きなクマが出来ていた。
ヤツが何をしたかったのか、からかおうとしていたのか…真意は分からぬまま時間が過ぎた。
勝手に着て帰ってしまったジャージは適当に洗って朝には乾いてて、それを眺めたまま考えてた。
昨日着ていたスーツも残念なことに部室に置いたまま、これはこれはで俺が持ったまま…
スーツはもう一着あるが返してもらわないと困る。これだって手元に置いててもしょうがない。
……返しに、行かなくちゃいけねえ。
そう分かっていても、頭でそう考えていても気は進まなくて。
スーツに着替えたものの、わざわざ紙袋に入れたジャージをただ眺めて握り締めた。
「強者は弱者を支配出来る。先生の頃も、そうだったでしょう?」
ああ、確かにそうだったよ。あの頃、正と準を行き来してた俺だ。そのことは良く分かってる。
だけどな、あんなことをするようなヤツは居なかった。蔑み、嘲笑うヤツは居ても、な。
どうかしてる。単に大人をからかいたいなら他でやってくれ。少なくとも俺は…赴任したばかり、まともでありたいんだ。
と、キツく握り締めた紙袋はガサガサ音を立てて、真っ直ぐだったのに少しシワになった。
……部室の鍵、勝手に借りてスーツとジャージ、交換しようか。
そうと決まれば善は急げだ。朝練が始まる前に、いや…始まってても構わない。とにかく早く。
早くやることをやれば近づかなければいい。コートも部室も、アイツにさえも…近づかなければいい。
朝はまだ5時半すぎ。守衛が門を開けるのは6時以降…それが分かってて俺は走り出していた。
学校から少し離れた場所あるアパートから歩くこと30分。
普段なら空を見ることもある、風を感じることもある、背伸びをしながら歩くこともあるというのに今日はない。
ただひたすら歩いて歩いて…見えた校門。すでに解錠され、登校が可能となっていた。
だが、残念なことに校舎内への立ち入りは未だ不可能で…仕方なく問題の部室へと向かった。
運が良ければ朝練があっているかもしれない。運が良ければ朝練前で誰かが居るかもしれない。
「……お、やってる」
裏に近づくにつれて響く音。それは間違いなくコートで誰かが練習している証拠。
こっそりと背伸びをしてコートを眺めれば案の定、数人の生徒が練習をしててホッと安堵した。
この様子だと部室の鍵は開いてるだろうし、運が良ければ誰かが居て無事に交換が出来るかもしれない。
ちゃっちゃと用件を済ませてしまえばこっちのもんで後に引きずるものが無くなるんだ。
そう考えて足取りも軽く部室へと向かえば、そこには一人の生徒が呆然と立ち尽くしていた。
「おはよう。何やってんだ?一人」
「……ウス」
「ん?どうした?」
「先生を、待ってました」
「俺?」
俺より遥かにデカイ生徒、随分とクール…というか無表情に淡々としてるが俺を待ってたって、何だ?
首を傾げてそいつに何故?という疑問文を投げ掛ける前にスッと部室のドアを開けられ、手荒くも突き飛ばされて。
驚いたもんで情けない声を上げて滑り込むように部室に入れられた。その直後、静かに響いたドアの閉まる音。
「……何だあ?」
よく分かんねえの。待ってたって言っときながらさっきのヤツは部室に入って来たわけじゃねえし…まあ好都合だけどよ。
しっかり握り締めてたお陰で紙袋は手放してないから、今のうちにこっそりとすり替えりゃいいわけで――…
「おはようございます。先生」
声と共に背後からスッと伸びて来る腕が見えた。気配なんか無かったはずなのに。
硬直、鳥肌を立てて振り返った先…人並み外れた顔が見えた。薄い色素の髪と、青み掛かった大きな目。
「逃げるのは卑怯者のすることですよ」
「あ、とべ…?」
「それに、俺のジャージどうするつもりだったんですか?」
くすくす笑って背後から羽交い絞めされて…当然、振り解かないわけがない。
思いっきり手を振り払って距離を保てばヤツはまだ冷静で、真っ直ぐと俺の方を見て笑っていた。
呑まれるな、惑わされるな。それ以上に冷静さを保てないようであれば俺が威厳なく負けてしまうだろ。
ドクドク脈打つものを抑えて呼吸を整えて…そのジャージの入った紙袋をヤツに差し出した。
「着て帰って悪かったな。一応洗濯しておいた」
「それはわざわざ有難う御座います」
「で、俺のスーツを返してもらいたいんだが…」
「返す?まるで俺が盗ったみたいな言い方ですね」
「……悪い、訂正する。俺が捨てて帰ったスーツを引き取りたい」
呑まれるな、惑わされるな。ちょっとした挑発に乗ることは簡単だが今はそれをしていいことはない。
手の中にあった紙袋はヤツに押しつけるように渡して、ジッと目で訴えかければ視線が動いた。
ロッカーの端、ハンガーに掛けられた俺のスーツが視線の先にあった。
「ご丁寧に掛けてもらって悪かったな。有難う」