背筋に走る悪寒は、そう簡単に拭えるものではなかった。
払えるものならば何でもしたい。それくらいこびり付いて…
今すぐにでも洗い流せようものなら洗い流したい。
「どうしたの手塚」
「……何でもない」
何に置いても分が悪いのは俺だ。何をしても、どうしようとも…
それを考えれば俺は黙って生活をするだけであって…他は何もない。
あと数ヶ月なんだ。もう1年も残らぬ期間で俺は此処を出れるんだ。
「顔色悪いけど…」
心配する不二に「大丈夫だ」と告げて少し首を振って頭からヤツを消す。
分が悪いのか間が悪いのか…あの日、何故俺はあの場へ行ったんだろう。
そんなことさえなければ何も知らずに生きて、過ごしていけたはずなのに。
「体調悪いんだったら部活は…」
「大丈夫だ。心配するな」
「……君は頑固だから無理しないといいけど」
違うんだ。そう心では告げる自分が居ても言葉にはならず、俺は口を閉じた。
ここで口にすることなど出来ないあの光景、あの出来事、そして…事実。
不二に告げたところで解決はしないことだろう。俺の心は少し落ち着くかもしれないが。
だが、アレは危険な人物で…俺の所為で不二に何かあっても困る。
……リスクを負わすわけにはいかない。
「職員室に用があるだったね」
「……ああ」
「じゃ僕は先に教室に戻ってるから」
にこやかに笑って教室へと戻っていく不二の背中を見て思う。
知らぬが仏。何も知らないならば知らない方がいい。
今までに出来た思い出が一瞬にして吐き気を覚えるものになるくらいなら…
不意に出た溜め息は重かった。
職員室へ行く用があると言った手前、すぐに教室に戻ることが出来なくなった俺。
仕方なくあの人とは別の方向へと意味も無く歩き始めた。
夢であったならば良かったんだ。
全てが夢で、悪夢にうなされただけであったならば怯えることもなかった。
祈りを捧げ、浄化を願うことも出来たであろうけども…アレは夢でも何でも無かった。
目の前で確実に行われていた黒いミサ。
笑い声が響く、悦ぶ声が響く、そして…俺は目を合わせてしまったんだ。
確実に、緩む表情を目の当たりにして…どうしようもない悪寒を感じて逃げ出した。
取り憑かれそうで、取り込まれそうで、それを回避するために走った。
「手塚くん」
そう、唇がゆっくりと動くのを見て……あの時も同じ吐き気を覚えた。
「汚らわしい」と罵れるものならば罵ってやりたかった。だが…そんな勇気など持ち合わせてなかった。
ただ迫り来る吐き気だけを抑えて、俺は走り去ることで回避したんだ。
「……用事ある、嘘はあかんなあ」
「っ…忍足、先生」
「色々誤解させとるみたいやから解いとこ思うて声掛けたんに」
何で逃げるん?と、くすくす笑う彼の目は決して笑っちゃいなかった。あれは…追う者の目。
狙った獲物を追う者の、逃がさぬよう逃さぬよう凝らされた目。悪寒が走る。
「嘘吐きはドロボウの始まりやて習わんかった?」
「……時には嘘は必要だと習いましたが?」
「ふーん…それも一理ありやねんけど」
自分は教師で俺より上にあるんだ、とでも言いたいのだろうか。だが、続く言葉はない。
「とりあえず科学室へおいで。誤解は早々に――…」
「忍足先生」
「……何や」
話の途中、またも接触を断つべく言葉を遮る自分。
そちらがあくまで口封じを行いたいというのならば、こちらから敢えて先手を打ってやる。
「誤解も何も…誤解されるようなことは何も無かった、でしょう?」
――俺は何も見ていない。何も知らない。
「せやったら…わざわざ嘘吐いてまで避けることないんちゃう?」
「……失礼します」
引き下がることを知らない、俺よりも遥かに上手な彼。
再びやって来た吐き気。何事も無かったよう平然を装いつつ通り過ぎるしか出来なかった。