病室に響く、久しぶりに自分が本当に笑っている声。あの日から…笑うことすら忘れていたようだ。
大丈夫。もう大丈夫だ。支えはずっと気付かなかっただけで此処にあったことを知ったから。
――トントン。
ノック音から数秒、重く無機質な引き戸がゆっくりと開かれ、そこには…奴の姿があった。
一瞬、ほんのわずかに嫌気と吐き気感じた。だが、目の前に居る仲間がそれをフッと風のように飛ばしてくれた。
「盛り上がっとるとこ悪いんやけどそろそろ怒られてまう時間やで」
「あ、すみません忍足先生」
「いや、俺としてはもうちょいおらせてやりたいとこなんやけどなあ…」
学園長が折れてくれへんくて、と教師らしく頭を掻いてすまなそうにしている奴に仲間は…引き寄せられていった。
何も知らなければ奴は素晴らしい教師なんだろう。生徒思いで生徒の気持ちを理解出来る人として…存在してるのだろう。
信用も信頼も人望も厚い。あのことさえなければ…俺だって信じて疑うこともなかったはずだ。だが、
「本当にすみませんでした忍足先生」
「ええねんて。せやけど今後は無理せんように、な」
「はい。今しがた怒られたばかりですので気を付けます」
失ったものを修復するのには、事が悪かった。
過ぎたこと、起きたこと、知ったこと…それを知らなかった時のように無かったことにすることは出来ない。
「明日の昼過ぎに退院予定や。そん時は…悪いんやけど俺が来ることになっとる」
「……分かりました。ご迷惑をお掛けします」
「それから…コレ」
ゆっくりと歩いて来てベッドの傍らに置かれたのは…さほど大きくない紙袋だった。
「退院の時に着る服ないやろ?下着と一緒に買うて来たさかい」
「……え?」
「朝の服はクリーニング中なん。で、勝手に部屋から物持ち出せんやろ?ほんで」
身を乗り出して紙袋を手に取って中身を見れば、値段を切り取られたタグがそのまま付いた服が入っていた。
全て同じ店で買ったものだと言わんばかりに同じマークの付いたタグ…ファッションに疎い俺でもコレが安くないことだけは分かった。
嫌いな色ではない。嫌いなデザインでもない。サイズも…合ってる。それがまた、腹の奥底から気持ち悪く思えた。
「忍足せん――…」
「俺が好き好んでやったことや。ただ着てくれたらええ」
「ですが、」
「せやかて着る服いるやろ?ただソレ着たらええの」
袋を握る手が力を持った。
「ほな、今日はしっかり休むんやで。行こか」
言葉は出なかった。ただ呆然と彼らの背中を見送るだけしか出来なかった。
あのやり取りだけ見れば…彼らは気付かない。それがまた奴の策の一つであるならば…俺には理解者は居ない。
奴は、誰よりも賢いものなのだと思い知らされる。
また再び静けさを取り戻した部屋の中、俺はいつまでも終わらない点滴を眺めていた。
終わりそうもない悪夢から早く目を覚ましたい、そんな気持ちから今すぐにでも年老いたいなどと馬鹿なことを考えた。
立ち向かうなど意味のないことはしたくない。どんな風に思われようとも平穏無事に逃げ出せればいい…
そう考える俺の脳裏にふと奴の言葉が過った。
「んー…とりあえずアレや。
逃げられんようにするわ。折角俺が俺で見つけた子、やもん」
物音一つしない空間の中、奴は静かに…確かにそう囁いた。
俺の思いとは真逆。あの瞬間、全身に悪寒が走ったにも関わらず俺は、微動だにも出来ぬほど体が竦んでいたんだ。