――それ以外は、狂気の沙汰。
狂気の世界
「アンタなんて大嫌い」と睨む彼女にソソられた、なんて口が裂けても言わねえでおく。
とりあえず、こんな薄暗く汚い場所が嫌で無理矢理引っ張って、喚く彼女を部室に押し込んで鍵を掛けた。
当然、邪魔が入らないように…万に一誰かが戻って来たとしても察せるようにと此処まで持ち込んだ。
「な、何すんのよ!」
声が震えてる。掠れて、少し肩が揺れてるのが見えて…それでも気丈に振舞おうってとこがツボに入る。
思わず笑みが零れるくらいに、そんな姿が滑稽で、だけど…愛おしくも見えるとか末期。完全にアウトだな。
……随分前から末期な自分に気付いちゃいたけど、それでもセーブはしておいたつもりだった。
罵ることで、馬鹿にすることで、見下すことで。だが、それですら俺が彼女と関係を持つための口実に過ぎなかった。
「撤回しねえと痛い目見る、そう言っただろ?」
「撤回なんかしないわよ、アンタなんて大きら――…」
「言わせねえよ」
俺だけ見てりゃいいのに、コイツが見るとしたら嫌悪を含んだキツいまでの感情しかなくて。
傍に居りゃいいのに、異議を申し立てる時だけ机越し…距離を空けてしか踏み込んで来なくて。
焦がれる、この俺がたった一人に焦がれて堕ちていくとか絶対許せないことであって…
「お前も堕ちろよ…ゆい」
堕ちるならば俺だけじゃなくお前も。狂気に満ちた世界へ共に。
思いっきりソファーに押し倒して口付けて舌を這わせば甘い味がする。味だけじゃない、コイツ自体が甘い香り。
俺の肩を両手で押して抗っても意味などなくて、逆に色々と好都合になってることにまだ気付いちゃないらしい。
ジャージの裾を力任せに引き抜いてやれば…ほらな、両手を拘束するだけの代物に変わった。
「あ、跡部…っ」
「一緒に堕ちるのも悪くねえだろ?」
「誰が!」
「ジャージってのが色気ねえけど…脱がせたら一緒だよな」
抑え付ける箇所が一つになって空いた手を背に回せば簡単に外れる、何とも色気のねえ可愛らしいだけの下着。
……いや、色気がねえっていうのは嘘だな。十分ソソられて、ズラして口付ければ…やっぱ甘いのな、コイツ。
何処もかしこも甘い気がする。何処に触れても甘くて、甘くて、それに気付いてしまったら他の蜜は啜れなくなるくらいに。
どうしてだろうな。色んなヤツが俺の周りに居て、嫌でも色んなもんが目に入って来るのに、それでも俺は――…
「……お前が欲しい」
ダメなんだ。他じゃ全然ダメで、誰と付き合ってみようがどうしようが、最終的に頭に浮かぶのはコイツで。
無意識に姿も変換される。呼ぶ名も変換されて…その度に平手で殴られて来たんだ。この俺様が、平手でだぞ。
それでも相手に湧かない罪悪感は、やっぱり末期だからだろうな。結局はその女共に感情なんか持てなかったから。
「好きに、なれよ」
「あ…とべ?」
「俺に堕ちて…溺れろよ」
懇願する、こんな風に組み敷いておきながら。抵抗もさせないくらいに押さえつけておきながら。
哀願する、行動とは裏腹に零れていく言葉をぶつけながら。どうしようもない願いに唇を噛みながら。
心底嫌われるために声を掛けてたわけじゃねえのに、少しでも気に掛けるくらいの存在でありたかっただけなのに。
簡単には捕まらない。簡単には手に入らない。お前から懇願することを期待して、結局は独り善がりにすぎない。
「ゆいが、どうしても欲しいんだ」
手に入らないものなんか今まで無くて、どうすればソレが手に入るのかを俺は無意識に悟っていた。
実力が欲しければ鍛える、努力する、練習する。知識が欲しければ勉強する、調べる、記憶する。地味でもそうする。
物が欲しければ買う。でも…お前は物じゃなくて、どうあっても買うことも出来ない。手に入れる術が分からない。
「好きで好きで…そればっか、だ」
「……跡部」
「俺は…どうすりゃいいんだ?」
初めて手に入らなかったものを欲しがる。まるで子供みたく駄々を捏ねて、無理矢理に押さえ付けてでも欲しがる。
子供よりタチが悪くて、子供より子供だと自覚しておきながら押さえ付けることを止めることはない。
無様だと思う。情けねえ面もしてるはずだ。真っ直ぐにゆいを見ることも出来ずに、醜態だけ晒してる。
「……っ」
どうしていいのか分からねえ。分からねえことが悔しくて、どうしていいのか分からねえのもまた悔しくて…
体は自然にゆいから退いて、自由を返してた。本当なら既成事実でも作って全てを収めようとしてたのに。
そんなことをしても意味なんかない。本当に欲しいものが崩れてしまう。一生、手に入らなくなる。気付いた。
「……悪かった。気を付けて、帰れよ」
ソファーに座り込んで頭を抱え込んで思う。最後の最後でセーブが利いたことを、褒めるべきか貶すべきか。
どの道利いたところで取り返しは付かないところまで言っちまったんだ。もうどうしようもない。
それでも…スッキリしたんじゃねえか。もう告げる言葉もなくて、分からせるだけ分からせたんだ。何もない。
「跡部…」
「もう、帰れ。次は本当にタダじゃ済まない」
最初からちゃんとした告白でもしてりゃ良かったのか?突っ掛からずにいれば…手に入ったのか?
いや、そうあっても手には入らなかった気がする。気がするとからしくねえけど。もう、それを知りうる手段は残されてねえ。
「……アンタの愛情表現、間違ってる」
「気付いた。だから帰れ」
「……アンタの言葉が物凄く癪に障った」
「分かった。だからさっさと帰れ」
「告白、方法も、間違ってる」
「それ以上つべこべ言わずに帰れ!」
目の前にあったはずのテーブルを蹴飛ばして、そのままの勢いで立ち上がって見た彼女の顔。
怯えてなんかいなかった。軽蔑…してるようにも見えなかった。ただ、怒りに満ちたような目をしている。いつものように…
そうか。最初から心底嫌ってたんだな。いつもと同じ目に、どうしようもない感情が湧いて来る。
どうすれば良かったのか。どうすればまともに目を合わせて会話が出来たのだろうか。どうすれば…手に入ったのだろうか。
「アンタなんて大嫌い」
「……さっきも聞いた」
「捻くれ者」
「……ああ、そうだ」
分からないことは山積み、分かってることは目の前の女が身を震わせ、怒りを露にしていること。
どの道手に入ることの無い女だ。やっぱり無理矢理にでも組み敷いておくべきだったんだろうか…いや、それはもう無理だ。
まともに顔を見ちまったら終わりだ。もう俺は手も足も出せなくて、今ですらもうその顔すら見ることが出来ない。
「……こっち見なさいよ」
誰が向けるかよ。俺がどれだけ情けない顔してるか…お前だって分かってるはずだ。
こんなに…欲しいと思ったものを手に入れるのが難しいことだなんて俺はずっと知らなかった。それを痛感する。
馬鹿みてえに痛感して…絶対、情けない面引き下げてることに違いなくて。
「顔、上げなさいよ」
「……断る」
「アンタ…このままでいいわけ?」
……このまま?このままって何だよ。
「私は…どうも跡部のこと勘違いしてた。それに気付いた」
「……だから?」
「相当な不器用。まさかそんな思いで突っ掛かって来てるとは思わなかった」
子供だとでも言いたいのかよ。そんなこと…俺自身でも気付いちゃいたんだ。だけど、どうしていいのか分からなかった。
クラスも違う。部活も違う。接点という接点は全て部長会と生徒会という名の会議だけで…他は何もない。
そんななかで見つけちまったもんを、どうすれば良かったのか俺には分からなかった。どうしても、分からなかった。
「皮肉なんか言わずに真っ直ぐに接してくれたなら――…」
ようやく顔を上げて見た彼女の顔は、相変わらず怒った表情をしていて普段と変わらないものだった。
女友達といる時のような笑顔でもなく、後輩に接しているような優しい表情でもなく、いつも通りの…怒った顔。
それなのに、走っている時の真剣な目に、惹かれる。軽蔑、してるだろうか。心底、嫌っているのか。
「私、跡部が大嫌いだった」
「……」
「それを撤回するつもりはないわ」
「……そうかよ」
「でも…泣きそうになって、子供みたいな跡部は…嫌いとは思わなかったから」
……何だよソレ。ワケ分かんねえ、よ。
手を伸ばせば触れられる距離にいるゆいは…今度は逃げることなく抗うことなんかもなく、
無意識に伸ばして触れた頬の手に、重ねるかのように合わせてきた。柔らかく温かな手の感触が甲に伝わる。
何だよその行動。何やってんだよ、お前…お前が俺に触れた、ら、俺は――…
「どうしていいのか分かんねえくらい、好きで、しょうがねえんだ」
「……」
「初めて…こんな思い、させられた」
弱い自分。強気でいられない自分が此処にいる。情けなく格好悪い自分が、醜態晒しながら懇願する。
こんなの全然俺らしくねえのに、お前が、初めて触れたもんだから…抑えが利かない。
「好きに…なれよ」
これ以上にないくらい焦がれて、無理やり腕の中に閉じ込めたゆいは抵抗しなかった。
よく…思い返せば、こんな風に抱き締めたことなんかなかったな。全部が全部、欲に任せた行動すぎて。
柔らかい。柔らかくて、やっぱ甘い香りがすんのな。そんなの…他じゃ感じられなかったのに。
「命令形なわけ?」
盛大に溜め息吐かれてその吐息が耳をくすぐる。俺様に向かっての溜め息なのに、それでも愛おしい。
「だったらアンタが好きにさせればいいわ」
Auf die Hande kust die Achtung, (手なら尊敬)
Freundschaft auf die offne Stirn, (額なら友情)
Auf die Wange Wohlgefallen, (頬なら厚意)
Sel'ge Liebe auf den Mund; (唇なら愛情)
Aufs geschlosne Aug' die Sehnsucht, (瞼なら憧れ)
In die hohle Hand Verlangen, (掌なら懇願)
Arm und Nacken die Begierde, (腕と首なら欲望)
Ubrall sonst die Raserei. (それ以外は…)
俺ほどお前を愛せるヤツは居なくて、俺ほどお前を想うヤツも居ない。
好きにさせるのが安易に出来たなら良かっただろうが…そうも簡単にはいかないらしいが、
それでも俺は…決意を固める。当然、他の誰にもお前を譲ることなんか出来ないから。
「好きに、させてみせる」
――それ以外は、狂気の沙汰。
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