お互いに会話が成立することもなく、気にしないようにしていた。
アイツはいつもと何も変わらない。何も変化なんか望んでいない。
俺には関係ない。彼女が何もなかったようにするのであれば…同じ顔をする。
どうせ、あと少しでこの地とも別れであって、アイツとも永遠の別れ。
気にすることもなければ、心に留めておく必要もない。
関係がない。関係を持つこともない。
気にすることもない。気にする必要もない。
――お互いに意識し合って、反発しているみたいですね。
鳳がボソリと呟いた声を、俺は聞こえないフリをした。
そうすることで何も考えずに済むから、だから何も反論もしなかった。
Miss Coolness
過酷なスケジュールを日々こなして来たお陰だろうか。
体はすっかり今の状況に慣れ、次第に疲労が緩和されるようになっていた。
それは当然俺だけではなく、体力の一番少なかった向日でさえもそうだ。
規則正しい生活、考えられた食事、体を壊さないよう工夫された練習。
此処へ来てようやく身に付くものがあった、と言える気がしていた。
不思議と今の生活に慣れ、親しみが湧いてきたのか…
帰省するのが寂しい、もう少し此処に居たい。そう言い出したヤツがいた。
体力がなく弱音を吐き散らしていた向日に、睡眠時間を削られたジローに…
「何だかんだ言うて、帰って元に戻るんは寂しいな」
「充実した、ってな。監督にしちゃ良い場所選んだのかもな」
「俺たちはまた来年も此処に来れるかもしれないですね」
「ウス」
来年の夏…2年で話し合っても、監督に相談してもそれは無理な話かもしれねえな。
次の年には此処がなくなっている。明らかに貰えなかった返答からの推測。
だが、それを俺は口にすることもなく黙ってラケットを握っていた。
気にすることもない。気にする必要もない。関係がない。関係を持つこともない。
「跡部かて、結構気に入っとるんちゃうか?」
畳みに布団、低いテーブルで床に座っての食事。
半分自炊、自分たちで掃除、洗濯、食事の準備…融通の利かない場所。
一体、何処が気に入ると言うのだろうか。全てが俺の行っている生活とは違う。
まるで禅寺修行に来ているみたいな、牢獄、拷問に近い状況下。
「誰が気に入るか」
俺様はな、不自由なんて言葉が似合わねえ男だ。
不自由しかないような場所はハナから気に入らねえし…それが全て。
ただ、そう思う俺とは裏腹に体は馴染む。嫌味なまでに。
基礎トレーニング、練習、クールダウン。動いている時だけは集中出来た。
体を動かしている間だけは頭の中にはそれしかなくて、何も思うこともない。
ボールを追いかけて、打って…それだけが全てとなっている。
だけど、それが終わるとどうだろう。やりたくもないことが待ち構えて、余計なことを考える。
チラつく女の姿があって、ジワジワと苛立ちすら芽生えてくる。
「最近、この付近で蛍が出てきました。良かったら見に行きませんか?」
夜、就寝前に現れた女はどうでもいい情報を持って来た。
退屈凌ぎ、思い出作り…そんなののために来たのは歴然としている。
つまんねえとこだもんな。何もねえ田舎で。だから…凌げるものを持って来たんだろ?
「蛍?蛍ってあの光る虫?」
「そうです」
「マジマジ?俺見たことないCー」
「この地域はまだ上流水源に手が加えられていませんからいるんですよ」
ド田舎な証拠だな。蛍なんざ図鑑の中の生き物だと思ってたぜ。
いや…最近は都会の河川でも見れるようにしてるんだっけか?ま、どうでもいい。
誰もが浮かれて見たがるもんだから…行かざるを得なくなる状況下、だな。
都内ではなかなかお目に掛かれない、今の時期の田舎にしかいない蛍…
「見に行かれる分には構いませんよね?」
「……勝手に行けばいい」
だが俺は行かずに残った。もぬけカラとなる部屋に、ただ一人。
ワイワイと楽しそうに歩く一行を見送ることもなく、ただ部屋に横になって本を持ち出す。
よく考えれば、つまらない合宿となるだろうから色々と本を持って来たんだった。
今更になって…そのことを思い出すとかおかしなもんだ。溜め息も出る。
そう、結局は一冊も読めず、時間が流れた。不思議なくらいに、流れたんだな。
何も考えたくないならば、別のことをすればいい。別な場所へ神経を持って行けばいい。
落とした視線の先にある活字は、脳の中でバラバラとなり吸収されていく。
そのままの状態で俺は、本の中へと入り込むこととなるだろう。静かに穏やかに――…
「……跡部の言う通りよ」
時間は…そう経っていないことは確かだった。
それなのに急に降って湧いた声に、驚かないわけがない。
「此処はこの夏を最期になくなるわ」
穏やかに過ぎるのを願っていたのに、それなのに崩されたバランス。
脳へと響く、身も弥立つような女の声。静かに、部屋に浸透していく。
目の前をチラつかなければ問題もなかった。気にもしなかった。
解放されると思っていた。全ての物事から。
気にも留めたくない、今もそう思う。こんなヤツのことなんか。
本を閉じて視線を移せば、襖の向こう側には女がポツンと立っていた。
案内、するんじゃなかったのかよ。そう言葉にするのは簡単、だけどそれは言わなかった。
「ハッ、わざわざ…それを言いに戻ったのかよ」
「そうよ。アンタの仲間が"気にしてる"なんて言うからね」
「冗談だろ。それもわざわざ信じたのかよ」
気にしてる…勘違いも甚だしいだろ。俺はわざと見ないようにしてる。
それくらい無関心で、気にも留めていなくて…ただそれだけのこと。
それなのに何故、どうして俺の願いを聞き入れない。
何のために…わざわざこうして現れて姿を晒す。
何故、こうも放っておいてくれないのか。周りもこの女も。
全てを掻き回すだけの存在が目障りで、こうも俺を苛立たせているというのに…
最初から突っ掛かって来て、俺にのみ敵意を剥き出して、俺を苛立たせて。
俺が最も嫌いとする女を更に上回るほどイライラさせる、この女…
「……蛍」
「あ?」
「付いて来たみたい」
浮遊する一匹の蛍が、何を勘違いしたのか電球の方へと向かっていく。
緑がかった黄色の発光体はふわふわと揺れて、俺の視線を揺らす。
女が急に電気を消したもんだから更に光を放ちながら浮上して、下へ降りて…
開きっぱなしの部屋の外へと移動していく。ふわりふわり、不安定ながら。
……もう、元の場所へは戻れないというのに。
「悪かったね。からかい過ぎたみたい」
「何を今更…」
「わがまま放題のお坊ちゃんだったから…打てば響くし」
元に戻れないのはあの蛍なのか、過ぎた時間なのか、俺の中の何かなのか…
よく分からない感情が動いて、目覚めて、響き始めて…あの時のように。
気持ち悪いまでに心臓あたりを駆け巡るもの、悪寒に似たモノを感じて鳥肌が立つ。
「どの道、本当に最後だから先に謝っておくわ」
「ごめんね」とかすかな微笑みを浮かべて呟いた声が、響いて、消えて。
大人ぶって俺を見下して、勝手に仕切って、勝手に部員を動かして。
誰もを従えて、文句も言わせないほどに圧力を掛けて…俺までも動かしやがって。
俺を叱って殴った女、今までに存在しただろうか?ましてや、赤の他人で――…
衝動的に抱き寄せた。向日が倒れたことで責め立てた日のように。
無意識な行動が俺を驚かせたが…今は違う。今回は、無意識なんかじゃない。
あの時に不思議と傾いた何かの目盛りは、今もずっとずっと傾き続けているとしたら…
自分を責めた表情。零れそうな程に自分を責めて、流れるのを堪えたあの表情。
認めたくなかった。だってそうだろ?何もなかったかのような態度、行動、言動…
俺だけが浮遊しているだなんて、思いたくなかった。
記憶の中に付けられた付箋紙が、ハラハラと剥がれ落ちていく――…
「……負けた。完全に、だ」
「意味が、分からないわよ」
今度は拒絶の言葉は吐かれなかった。だが、受け入れられることもない。
一方的に回した腕、自分の背中には…ぬくもりは感じられない。
「気に入らないんじゃない。文句が言いたいんじゃない」
気にしたくなかったのは、お前ばかりを見る自分が嫌だったから。
文句を言ったのは、お前が俺に対して媚びるような真似をしなかったから。
最初から…何となく自分を変えられそうで怖かった。それに気付く。
その目の色から逃れなれなくなる自分が怖かった。だから…避けた。
「手に入らないから…負けだ」
たった一週間。だけど、これは時間だけの問題じゃない。
思いたくもなかった、惹かれゆくものに。名前も呼ぶことすら出来ない俺に。
「手に入れたい」なんて願望が心に潜んでいたことなんて、気付きたくなかった。
不可能だと知るから。不可能だと、自分自身が警告を出すものだから。
堕ちゆくは俺の心、深く深く何処か、遠くへ――…
「別に、嫌いじゃないわよ。アンタのこと…」
引き剥がされた体と、部屋を出て行く背中と。
気付きたくなかった想いと葛藤する自分が、背を追って触れた。
無理やりでも何でもいい。罵られても、拒絶の言葉を吐かれてもいい。
自分が納得出来ないから、堕ちゆく心がカタチとして残っているから…
「俺は…どうすべきなんだ?」
乾いた唇が紡いだ言葉。触れた唇から零れた疑問。
砕いて、バラバラになってしまえばいいのに…そうすれば終われるものがある。
これ以上、浮遊させずに沈めて、堕ちるところまで堕ちて砕けて。
それを願って願って、もう一度触れた。
「俺は……ッ」
目を伏せては見えないものがある。蓋をしては分からないことがある。
言わなければ気付かないことがある。伝わらないことがある。
だから、気付きたくなかったんだ。こんな想いに――…
アイツらが戻る頃、俺はすでに眠りにつこうと努力していた。
蛍の感想など聞きたくなければ、そんなものに興味もない。
もうすぐ終わる合宿、これは思い出として消えていくものとなるだろう。
きっと明日が来たとしても何も変わらない。確実に、確実に。
女は何もなかった顔をして、いつもと変わらずにガンガンとフライパンを叩いて…
「朝です。さっさと起きて下さい」
その時は…俺はどうすれば良いのだろうか。
自分の中に花開いたものをどうやって枯らせば良いのだろうか。
俺もまた、女と同じ顔をするしかない。それしか方法が見当たらない。
自分を見失わぬために、自分を失くさないために…出来ること。
2006.11.02.
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