逆転 | ナノ

龍ノ介と亜双義

 ぼくはこいつの鼻唄なんて一度も聞いたことがないし、こんなに上機嫌なのも見たことがなかった。ぼくは、ぼくだけは、この場でただ一人不安で仕方がない。乾いた冷たい風が肌を強く叩く。もう痛いくらいに寒いし、夜はとっくに更けて辺りは不気味な静寂に包まれている。鼓膜を揺らすのは亜双義の歌う、聞き覚えのある鼻唄だけだった。きっとなんでもない、静かな普通の夜だ。ぼくが、亜双義を浚ってしまったような、亡命でもしたような気でいるからこんなにも不穏に感じるのかもしれない。実際は手を引いて、亜双義の下宿からすこし離れた小川まで散歩のような足取りでここまでたどり着いた。それだけなのに。
 亜双義を連れ出すのに必死だったから防寒具のひとつも持ってこられなかったけれど、不思議と寒さが身に染みることはなかった。たしかに寒空の下ではあるけれど、それよりもなによりも、今ぼくの頭の中は亜双義でいっぱいで、感覚が鈍ってしまっているようだ。握った亜双義の手も氷のように感じる。いつもはどんなに寒くたって、暑くたって温かい手をしているのに。
「どうしてオレを選んだ」
 連れ出してから、鼻唄以外の声を初めて発する。これがただの夜の散歩ではないと、亜双義は既に察知しているようだ。
 そして、今のぼくの答えは明瞭なものでない。亜双義に怒られないか心配だった。それでも、はっきりといわないとには気持ちの整理をつけられそうもない。
「どうしてだろう」
 なんだそれは。とか、はっきりしろ。とか言われるのかと身構えていたが、薄く開いた唇から溢れたのは先刻の歌の続きだった。亜双義はぼくに追求しなかった。出来なかったのかもしれない。
「今、幸せか?」
 今。……それはもう。
 この間ようやく年が明けたところだと言うのに、お互い紙のように薄い甚平しか羽織っていないのだ。
「地獄のようだよ」




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