夏のある日
しが、倒れた。
「っ、あの馬鹿…!」
まだ繋がっていた電話を放り出し、すぐに準備をする。いつもの往診と同じ準備が整うと、廊下ですれ違った看護婦に行き先だけを伝えて、すぐに病院を出た。
向かうのは、教会。
『名無さんが急に倒れてしまって…!み、宮田さん、来れますか…?』
電話越しでもわかるほど、明らかに動揺している牧野さんから、そう言われた。
彼女が毎日の通院に来るのは大抵午前中で、今日は来ないから何かあったのではと思っていた。それでも絶対に午前中に来いと言っていたわけではないから、目の前の仕事を優先した。
その結果が、これか。
沸々と沸き上がる苛立ちを抑えることもできずに、俺は半ば走るように教会へ向かった。
「失礼します」
しは、教会の長椅子に横になっていた。そのすぐ傍には、求導女である八尾が膝をついて、珍しく心配そうな顔をしている。その数歩後ろに、俺が来たことに安堵するような、且つ恐怖の滲んだ、微妙な表情をした求導師がいた。
そしてその更に奥、壁にもたれ掛かっていた神代淳と、目が合う。
「(厄介だな…)」
八尾や牧野ならともかく、淳がいるのは実に厄介だ。俺は医師として、彼から直々に「しの体調を管理しろ」と言われている。
若干不機嫌そうだった彼は、既にいつも通りの生意気な顔で、「さあ、これからお前をどう処分してやろうか」と言わんばかりにニヤニヤとこちらを見てくる。
「名無さんはどうしたんですか」
とにかく、今はしだ。後に俺が淳からどんな罰を受けようと、今はしを診ることが最優先だ。
「それが、ふらふらとした様子で教会に来て、すぐに倒れてしまったの」
「貧血か何かか…すみません、どいて下さい」
八尾は素直に場所を空けたが、まだ心配そうな顔をしている。牧野が不安そうなのはいつものことだが、今は淳までもが興味深そうに寄ってきて、しの顔を覗き込んでいる。
「(まったく、権力者が揃いも揃って…)」
教会の主である求導師に、それを影で操る求導女。ましてや村一番の権力を持つ神代家の次期当主までもが、何をこんな少女一人の為に集まっているのか。
「(…いや、それは俺も同じか)」
ただの患者を前にした時とは違う、妙な焦燥感がじわりと疼いた。
一通り診察を終えると、牧野が顔に大きく「心配だ」と書いて問い掛ける。
「あの、宮田さん…名無さんは」
「みたところ大した異常はありませんね、貧血か寝不足か…あるいはこの暑さだ、熱中症かもしれない」
「大丈夫なんですか?」
今度は求導女が、やっといつもの調子で問うた。
「ええ、少し休ませれば目を覚ますでしょう。とりあえず話はそれからだ」
前半は八尾に、後半は淳に向けて言った。お前が俺をどうしようが構わないが、それは彼女が目覚めてからにしろ、と。
淳はふん、とひとつ鼻を鳴らして手近な椅子に腰掛け、それ以上は何も言わなかった。
俺はただ道具を片付けながら、奇妙な沈黙を静かに聞いていた。
「……っう」
静かな教会に小さく響いた、一つのうめき声。
「! しちゃん、」
「え…あれ、八尾、さん…?ここは…?」
途端、ずっと祈るような恰好で俯いていた牧野が、弾かれたようにしの元へ駆け寄った。
「教会です、名無さん、良かった…」
「あぁ、牧野さん…宮田さんに、淳様まで」
しはまだどこかぼんやりとしたまま、きょろきょろと辺りを見回した。淳を見つけたときには、流石に驚いた風だったが、自分の状況を理解したのか、すぐに申し訳なさそうな顔になる。
「ごめんなさい…私、倒れて…」
「…こういう事態が起きないようにと、僕はお前に命じていたはずだが」
淳は立ち上がり、俺にそう言い放った。
「ええ、すみません」
淳に対しては申し訳なくなどないのだが、それでも少なからず、しをちゃんと診ていなかったということには後悔していた。
やはり通院ではなく、俺が往診に行くべきか…等と考えていたとき、いやに凛とした声が言った。
「淳様、宮田先生は悪くありません。私が無理をして、病院に行かずに教会へ来てしまったからいけなかったんです」
「宮田先生」という響きにどうしようもない違和感を覚えながら、俺は自分の耳を疑った。周りの反応を見る限り自分の聴覚は正常だとわかると、次に彼女の正気を疑う。
この少女は、一体何を言っているんだろうか。
何故わざわざ、自分を陥れるようなことを。
「宮田先生は、悪くないんです」
「…そうか」
神代家の次期当主は、苦虫をかみつぶしたような顔をして、俺に言う。
「本人がこう言っているからな。今回は、なかったことにしてやろう」
「はあ…ありがとうございます」
それだけ言い終えると、淳は帰って行った。
未だにわけのわかっていない俺や牧野さんを余所に、彼女は安堵の息をつく。目が合うと、また、困ったように笑った。
「…し」
「はい」
「帰りますよ…いや、やはり病院でちゃんと話してもらいましょうか」
「えっ、あの」
手を取り、立たせる。求導女に「失礼します」とだけ伝えて、教会を出た。
「歩けますか」
「…少し、眩暈が」
「歩けないようなら、抱き上げますが」
「へっ!?いや、大丈夫です!歩けます!歩きます!」
途端に慌てて否定する。あまりに思った通りの反応をするので、見ていて面白い。
照り続ける太陽の下で、小さな白い手を握り、俺は歩き出した。
夏のある日
繋いだ手は、焼けるように熱かった
それでも何故か、離そうとは思わなかった
それでも何故か、離そうとは思わなかった