05



金曜日の午後。
会社でキーボードを鳴らしながら、名前は花見の日のことを思い出していた。

桜吹雪がとても綺麗だった。
美味しかった露店のイカ焼きやお団子。
それから、カカシと、そう、初めてのキスをした。

カカシがキスを止めないものだから、リップグロスも口紅も全て落ちてしまって、反対にカカシの色の薄い唇が見慣れた色に染まっていたことを思い出す。
手鏡を取り出して唇を見せれば、カカシは本当だ、と嬉しそうに笑っていた。
名前がカカシの唇をティッシュで綺麗にしてあげると、カカシはお返しにと名前に口紅を塗ってくれた。

そう、その前だ。
カカシは疑われたくないと言った。

幸いに、立ち直れないほどに深い痛手は負ったことないものの、記憶喪失で世間の常識を失ってしまった分騙されたことは少なくない。優しいと思って信じていたら、お金を取られそうになったり、はたまた体目当てだったり。

昔の恋人だったんだよ、なんて頭おかしい。こんな簡単に騙せるとでも思っているのだろうか。弱味につけ込まれるんじゃないかと怯えてしまう。

しかし、カカシの言っていることが本当だとしたら、カカシはこの10年間自分を探していてくれていた。
それが本当ならば、カカシの愛は本物であることは間違いない。

同じ問答を自分は何度繰り返すのだろうか。
ここまで来たら、自分が信じたいのか、信じたくないのかそれだけのような気がしてきた。カカシのような素敵な男の人になら騙されてしまっても良いのかもしれない。

ポケットの中で携帯が震える。
名前が手を止めてこっそり覗くと、カカシからメッセージが届いていた。

『今夜、空いてる?』

名前は、すぐさまメッセージを打ち込む。

『空いてます』

すぐに返事が来て、笑顔の絵文字が並んでいた。思わず名前は、小さく笑った。

カカシを疑っているのは自分が臆病だからだ。
清々しく信じてしまえば良いのに。だが、信じた人から裏切られる事ほど辛いものはない。
思わせぶりに期待させられて傷付けられる位なら、最初から傷付かない選択肢を選ぶ。この長かった10年で学んだことだ。

しかし、自分が傷付くことを恐れてカカシを傷付けてしまった。
カカシに謝らなければならない。
ただゴメンと言うのは簡単だ。心もなくゴメンと言われた所でカカシは更に傷付くだろう。どう言ったら、カカシに自分の気持ちが伝わるだろう。

手元の仕事を片付けながら、名前は退勤までカカシのことを考えていた。





「お待たせ」
「いえ、お待たせしたのは私ですし」
「そうだっけ」

カカシの方が先に待ち合わせ場所にいたのに、おかしなことを言った。
今日は、デートの時のようにラフな格好をしている。仕事ではなかったようだ。

カカシは、いつものように名前の手を勝手に取ると歩き出した。

「どこに行こうかなぁ」

そう言う割に、カカシは何の淀みもなく歩みを進める。

「お腹は空いてる?」

名前は、首を横に振った。何しろ、カカシに出会ってから日常的にお腹が空かないのだ。

「じゃあ、ちょっとだけ寄り道しながらね、何処かの店に入ろうか」

そうカカシがニッコリと微笑み掛けた時、2人の後ろから太陽の輝きを纏った明るい声が聞こえた。

「名前さーーーん!」

振り返ると、向日葵のような笑顔の女の子が駆け寄ってきた。名前は、懐かしさの残るその顔に思わず喜びの声をあげた。

「わあ、大人っぽくなってる!」
「名前さんは、ますます綺麗になったってばね!」
「ありがとう。あ、カカシさん、この子は、私が大学時代に家庭教師をしてたクシナちゃん。めちゃくちゃ頭良いんだよ」
「高校の時にはお世話になりましたー!先生!」
「先生って1回も呼ばなかった癖に」
「名前さんが嫌がったてばね」

唇を横にいっぱいに広げて笑う女の子は、カカシに頭を下げてから、名前の耳元に詰め寄った。

「もしかして、恋人?」
「え?えっと」

キスはしているけど、告白がなかった。改めて見ると、付き合っているとは言えない。いや、大人になったら告白なんてしないこともある。しかし、手は繋がれたままで彼氏かどうか分からないなんて言ったら怪しまれる。
名前が返答に困っていると、カカシが代わりに答えた。

「今はね、名前のことを口説いてる最中なのよ。惚れ直させる為にね」

クシナは、目玉が飛び出るのではないかと心配になる位に目を見開いた。

「えー!?こんなイケメンを泳がせてるってばね!?」
「ちょっと!言い方!」

クシナはオーバー過ぎるリアクションで、コロコロと表情を変えていく。それに連動するように名前も、表情を柔らかに変えて楽しそうに話をしていた。
2人の様子を見ていたカカシに、クシナはしまった!と言いたげな顔をした。

「名前さん、独り占めしたいですよね!邪魔しちゃってすみません!」
「え?あ、俺はそんな、クシナさんには」

カカシは慌てて気にしないで欲しいと言ったが、クシナは頭を下げると走って駅に向かって行った。揺れる長い髪を見届けて、カカシは今起きたことを改めて思い返した。

「……こんな、偶然もあるんだね」
「なんですか?」
「ううん、独り言。行こっか」

寄り道と言うよりは、道草で。
個人経営の小さな店が並ぶ通りを抜けて、辿り着いたのは小さな神社だった。

「磐船神社?」
「そ、知らないでしょ」

都内には、神社は山ほどあるし、そもそも神社に赴くこは初詣くらいだ。

「何か、有名な神社なんですか?」
「界隈ではね、有名な神社だよ。と言っても、ここは分社なんだけど」

せっかくだからと御参りをして、お守りを見ているとカカシが手招きをして来た。

「これが、有名な井戸なのよ」
「井戸ですか?」

境内の端っこにある歴史を感じる井戸。大学の時に、友人に見せてもらった井戸の中から女の人が出てくるあの映画を思い出させる。映画に出てきたそれよりは、屋根も付けられて造りもずっと立派なのだが。

「なんて言うの、こっちで言う所謂パワースポットって言うやつ」
「ほお……」
「あれ、あんまりこういうの食いつかない?」
「そう言う訳じゃないんですけど」

反応の悪さは、ホラー映画思い出したからと言い訳しようと口をモゴモゴとさせていると、カカシが井戸に向かって歩き始めた。
促されるままに名前も恐る恐る近付いて覗いてみた。
井戸の側面に長い注連縄が底に向かって降ろすように固定されている。

「ロープ?」
「うん、魂や神様がこのロープを伝って上がって来られるようにしているんだって」
「え、怖い」
「そうね、死んだ人の魂も上がって来るみたいよ」
「え?」

それ、パワースポットじゃなくてホラースポット。呪いの井戸じゃないか。
幽霊を信じている訳ではないが、映画のワンシーンを思い出してしまい後ずさる。

「怖い?」
「ちょっとだけ……映画みたいだなと思って」
「映画……ああ」

カカシは怖がる様子も可愛いなぁと言いながら、名前に無理させて悪かったねと詫びて井戸から離れた。

「カカシは、あの井戸を見に来たんですか?」
「ん、まあね」
「意外とスピリチュアル信じてる人なんですね」
「信じてるって訳じゃないけどもー、ま、ちょっとね」

それから境内の端っこに置かれた椅子に掛けながら、どこに食事に行こうかとカカシは名前に訊ねていた。カカシは何にでも詳しく、名前がアレを食べたいとか、こんな気分だとか言うと最適なお店を教えてくれ、そうして連れて行ってくれるのだ。その店にハズレはなく、名前は毎度のように密かに感動するのだ。

「カカシは、情報通ですね」
「んー、そう?」
「はい」

その間、長く座っていた訳ではないが、近所の住民と思わしき人達が、ちらほらと参拝しに来ていた。意外にも信仰心と言うものが世間の人にはあるのだと驚いた。

「あの、カカシ……」
「ん?どうしたのよ」

カカシに謝らなければならないことを思い出した。
名前は、膝を突き合わす。

「あの、ごめんなさい」
「え?なに?」

何か悪いことしたの?と、カカシはおどけながら軽いノリで問う。

「私、カカシを傷付けちゃったよね」
「は?」

名前は、唇を噛みながら頷いた。申し訳なさに息が苦しくなる。

「私、カカシのことを信じます」

カカシは、その重たげな瞼を僅かばかり見開いてからふと力を抜いた。

「嬉しいよ」

カカシの人差し指がピンと伸び、名前の目の前に立てられた。

「名前、ひとつ間違ってることがある」
「え?」
「名前とこうして再会できて、こうして話せて、こうして触れられる。俺にとっちゃ、全てが奇跡で幸せでしかないんだよ」
「そうなんですか……」
「そ、俺は傷付いちゃいないよ」

あまりの愛の眩しさに、名前は本気で言っているのかとカカシに問いただした。
過去の自分が何をしたら、こんなに無条件にカカシは自分を愛してくれているのか分からないのだ。

「でも、私は記憶がないんですよ。カカシの好きだった私はもう居ないんですよ」
「知ってるって。分かってるよ。記憶がどうなったとか、性格がどうなったとか、身体がどうなったとか、俺の愛の前では無意味なんだよ。うーん、分からないかなあ」

分からないのかあ、とカカシは名前を見て、寸と息を抜いた。

「ま、でも、それだけやっと本気で俺のこと考えてくれ始めたってことでしょ」
「それは、はい」
「なら、嬉しいね」

ニコニコと笑うカカシに、名前は肩透かしを食らう。もっと何か責められたり、説教されたりするものだと思っていたからだ。

「ご飯行こっか」
「はい、そうですね」

この人が喜んでくれているのなら、きっと自分の選択は間違っていないのだろう、そう思うことにした。



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