慟哭のあと
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城の中がとても静かだ。いや本当はとても騒がしいのだろう。
さっきまでの事態で混乱は大きかったはずだから騒がしくないわけがない。
けれど少なくともリウ・シエンの耳にはそれらの騒がしさは一切届いてはいないようだった。
気持ちを切り替えなければならないのはわかっていてもそう簡単にはいかないのが人の情というもので。今回のことはダイレクトにその部分を揺さぶったのだ。
リウ・シエンの耳には周りの音などおそらく一切届いていない。
ルオ・タウが背後にまで近付いても気付きもしないのがその証拠だろう。手を伸ばせばすぐに届くほどの距離まで来ている。
「…長」
声をかけられた瞬間、ようやくその存在に気づいた様子でリウ・シエンの肩が驚くほどに跳ねた。まるで肉食獣に気付かれた獲物のようだ。
おそるおそる振り返ったその目は本当に怯えを含んでいるように見えて、ルオ・タウはかすかに眉をよせた。
「リウ・シエン?」
もう一度今度は名を呼ぶと彼の表情はさらに歪んで、ルオ・タウは訝しみを強めて。一歩を踏み出すと、歪められた目元の異変に気づきそのままそこへと手を伸ばす。
同じようにリウ・シエンの肩は跳ねたが構わずに親指の腹だけをそっと触れさせた。
「すこし腫れている。皆が来る前に顔を洗った方がいい」
真っ赤に充血した目はいまだにすこし水気を帯びていたし目元は腫れぼったさを垣間見ることができた。
しかしそんなルオ・タウの進言にリウ・シエンは少しだけ驚いた顔をするだけだった。
動く気配もない長に対しこれではらちが明かないと言いたげに、ルオ・タウはリウ・シエンの手を取ると水場に向かおうと足を動かし始めてしまう。
しかしリウ・シエンがさしたる抵抗もしないまま数歩進んだところで急に足を止めたので前を行くルオ・タウは引っ張られる形になりそれからようやく足を止めて振り向いた。
「…それだけ?」
「それだけ、とは?」
ようやく口を開いたリウ・シエンの言いたいことが慮れず問い返すルオ・タウをリウ・シエンはようやく見た。
「何も言わないのか?書のこと」
言って彼の手がその体を取り巻く線刻を指すのを見てようやく言いたいことが呑み込めた。
長の証として譲り受けた線刻。書でもある線刻。それを勝手に人に貸したことに対してなぜ何も言わないのかと言いたいのだろう。
ルオ・タウは表情ひとつ動かさない。
「今あなたにそれを言うことは酷だろう」
さも当然といった風にさらりと言われリウ・シエンは驚きを露わにした。
苦言のひとつやふたつは言われる覚悟はあったようで、次には混乱が浮かんでくる。
「事の一報を受けた時には肝が冷えた。だが、あなたが選び望んで出した答えをとやかく言えるほど私は馬鹿ではないつもりだ」
「それは、オレが長だから反対しないってこと?」
「その通りだ。私はあなたという個人を長として信頼している。だからこそ、そのあなたが出した判断を間違っているとは思わない」
絶対的忠誠に占められたルオ・タウの言葉にはなんのためらいも見えずリウ・シエンは小さく息を吐き出した。
それから自主的に水場へ向かおうとする彼の手を今度はルオ・タウが掴み歩みを止めさせたので、今度はリウ・シエンが振り向くことになった。
「なに?」
平静を装おうと努め始めたリウ・シエンの頬に再びルオ・タウの手が伸びる。
まだ腫れの引かないその場所に指が触れて、思わずリウ・シエンは目を細めた。
「だがそれは補佐としての意見だ」
「どういうこと、それ」
問い返されてルオ・タウの顔に浮かぶのは小さな苦い笑みのように見えて。
「心臓が止まるかと思った。個人的な意見としては、もう二度とこんなことは勘弁してほしい」
予想外の言葉にリウ・シエンの心臓こそ止まるのではないかと思った。