おやすみと一緒に
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大勢の気配で溢れかえる城内はいつ何時どこに居ても騒がしく賑やかだ。
もう日が落ちて大分経つというのにそれは変わらない。
しかしそろそろ就寝する者も出始める時間なのでもう暫くすればこの城も徐々に静けさに包まれるだろう。
屋上に独り佇むヨベルも例外ではなくそろそろ就寝の準備に入ろうかという頃合いだ。
湯浴みを終えて少し体温の上がっている体には湖を舐めて吹き付ける微風の冷たさが心地よかった。
流石に蒸れてしまう為今は付けていないがいつ姉に見つかっても大丈夫なように仮面を小脇に抱えている辺りに彼の性格が伺える。
さわさわと頭上から聞こえる葉擦れの音に耳を傾けながら目を細めたヨベルは一つ背伸びをして気持ちよさそうに深呼吸をした。その時。
「やあ、散歩かい?」
突然背後から掛けられた聞き覚えのある声にヨベルは弾かれるように振り返った。
「…イクス」
普段から日中はよくこの場所に居る彼だがこの時間に足を向ける事は至極珍しい。
先日水場で遭遇してから何となく顔を合わせ辛くクエストに派遣されるのを良いことに距離を取っていたのだが、まさかこんな形で遭遇するとは思いもせず。
今日は運良く手にしていた仮面をヨベルはためらいなく被った。まだ髪が少し湿っているが仕方ない。
「うーん、その反応は少し傷つくなぁ」
肩を竦めて笑うイクスにちらりと視線を向けてよく言うものだとヨベルはこっそりため息をもらした。
「そういうあんたはこんな時間に散歩って訳でもないんだろ?」
「鋭いね、モーリンの弟。ボクは美しいお嬢さん方に夜の挨拶をして回っていたのさ」
カチンときた。イクスが同性に声を掛けること自体珍しいことだが、話し掛ける癖に名前を覚えていないというのはどういうことなのか。
別に覚えて欲しい訳でもない筈なのに妙に頭にきた自分を不思議に思いながらヨベルは口を開く。
「あっそ。それは残念だったな。姉ちゃんなら部屋にいるよ」
我ながら少々棘があると自覚しつつ発したヨベルの言葉にイクスが小さく笑みを漏らした気がした。
「そうみたいだね。まあ、モーリンにはもう挨拶は済ませているんだけど。…さて」
「?」
予想していなかったイクスの反応にヨベルは仮面の内側でまばたきをして、その仮面にイクスの手が伸ばされた。
「ちょっと失礼?」
言うと同時に仮面がそっと跳ね上げられる。
籠もっていた空気が新しい風にさらされてひんやりして肌に心地よくて思わず目を細めた。
しかしそんな事を感じられたのも束の間。
気付いた時にはイクスの顔が近付いてきていてそっと唇の下、顎の頂点の辺りに触れて離れた。
「な…っ!あ、あ、あんた何やってるかわかってるのか!?おれは女じゃないんだぞ!?」
「ははは、勿論わかってるよ?これは……そう、おやすみの挨拶さ」
しれっとそんなことを宣ったイクスの手がヨベルの頬を包み再び同じ場所に唇が落とされた。
こういった事にてんで免疫のないヨベルの顔は最早真っ赤に茹で上がり、しかしそれを自覚する余裕もなく必死でイクスの体を押し返す。
「イ…イクスっ!」
「……まいったね」
「へ?」
「こちらの話さ。それじゃ、ボクはそろそろ行くとしようかな」
赤い顔のままきょとんとしたヨベルをよそにイクスはあっさりと身を離しスタスタと階段に向かって歩いていく。
しかし何かを思い出したように振り返り柔らかい笑みをヨベルに向けた。
「おやすみ、ヨベル」
「!!」
驚きに目を見開いたヨベルを楽しそうに見やってから今度こそイクスは階段へと姿を消した。
一方数日前とは反対に取り残される形になったヨベルは赤い顔をしたまま、未だイクスの触れた感触が残る気のする場所をゴシゴシと手の甲で何度も擦る。
名前を覚えていた癖に奥の手みたいに隠すのは卑怯だ。
そうだ。卑怯だ。
卑怯だ。と、思っている筈なのに。
言い知れない奇妙な満足感に胸の内を支配されてヨベルは戸惑う。イクスの行動の意味がまったく分からない。それ以上に自分で自分が分からなくなってくる。
「なんなんだよもう…」
完全に混乱して訳がわからなくなったヨベルは兎に角気持ちを落ち着けるべくそろそろとイクスに持ち上げられた仮面を下ろし、脱力したようにその場にうずくまった。