おはようも言わないで
 ちちちっと聞き慣れた朝鳥の鳴き声で目が覚めた。
 らしくなく残っている酒気と遅かった就寝に未だ頭は覚めきらずぼんやりとしている。
 このまま目を閉じたらきっと大分寝過ごしてしまうんだろうという予感だけはしてイクスは渋々気だるい体を起こした。
 その直後には大きな欠伸が出てしまいどうにも頭がすっきりしない。
 昨晩は城中が宴会のような有り様だった。目標のひとつであったアストラシアの解放が果たされた為だ。
 皆どこか気分が高揚していたから普段よりも随分と付き合いが良くてこんな素敵な時間を無駄にする訳にはいかないと、幾分張り切りすぎたのが敗因だったかもしれない。

「…顔を洗ってこようかな」

 そうすれば少しは目も覚めるかもしれない。そう思うが早いかイクスはタオルを手に部屋を後にした。



 日の高さから察するにまだ早い時間に目覚めてしまっていたのだということにイクスは今更気がついた。
 かと言って二度寝の末に寝過ごしてしまっては本末転倒。顔を洗ってすっきりすれば目も覚めて頭もはっきりするだろう。
 この城は一体どういう原理なのか常に水が湧き溢れている。その為城の中には水場の数も多くて大所帯でも混む事が少なく、更に今はまだ時間も早い為人気も少ないだろう事は未だ寝ぼけ気味のイクスでも容易に想像できた。
 いつもは敢えて女性達の多い水場まで赴くのだが今日は珍しく部屋から一番近い水場へと足を向けていた。

「ん…?」

 ふと耳に届く水音に不規則な跳ねる音が混ざっている事に気付く。

「先客かな」

 恐らく誰かが顔を洗っているのだろう気配にそんな事を呟きながら進むとやがて視界にその音の主の姿が入り込んできた。
 たっぷりとした柔らかそうな白い布地を纏った姿は背後からでは背格好までははっきり分からなかったが、線は決して太くはない。
 更に近付いていくと金灰色の髪が濯ぐ動作に合わせてきらきらと朝陽を弾いているのが見えた。
 時折見える指先もしなやかで細く綺麗だ。
 ただそれだけでイクスの寝ぼけた頭はその人物を「まだお話したことのないお嬢さん」だと判断してしまった。
 どう声を掛けたものかと様子を伺いながら更にイクスが近付いたのと同時に、顔を洗い終えたのだろう相手の手がさ迷うように伸ばされる。
 濡れてしまった毛先からぽたぽたと滴が滴っていてどうやらタオルを取ろうとしているようなのだが上手く位置が計りきれなかったようだ。
 今がチャンス!そう弾き出したイクスの脳の指令は寝ぼけているとは思えない程に早く、置かれていた相手のタオルをその手に掴んだ。

「…どうぞ、美しいお嬢さん」

 顔を見てもいないのに至極優しい声で言いながらその指先に触れるようにタオルを差し出す。
 その瞬間ぴくりと相手の手の動きが止まったがそのまま素直にタオルを受け取り顔に押し付けた。

「…あんた、後でザフラー先生に眼の検査してもらった方が良いんじゃないのか?」

 タオル越しに発されたくぐもった声は女の子のそれと比べれば質の違いは明らかで。
可愛らしいお礼すら期待していたイクスが今度は動きを止める番になった。

「……え?」
「男と女の見分け付かなくなったら終わりだと思うんだけど、あんたの場合」

 今度聞こえた声はくぐもってはいなかった。
 顔から離れたタオルは今は毛先の水気を拭っている。
 ようやく露わになった相手の顔をイクスはマジマジと見つめて寝ぼけた記憶を総動員した。
 声に聞き覚えは有る。それにこの髪の色と瞳の色にも見覚えがあった。

「ええと…モーリンの、おとう…と?」
「今更!?結構近くに居る方だと思うんだけど、あんた本当に男の事は全く覚えないんだな」

 これでもかと疑問系なイクスの言葉にモーリンの弟ヨベルは呆れの混ざった笑みを浮かべた。
 よく見れば確かにモーリンに似ている。そう言えばいつも変な仮面をつけている少年が近くにいたっけ。そんな感想を抱きながらイクスはばつが悪そうに髪を掻き上げた。
 不思議と普段のような開き直った言葉が浮かんで来なかったのだ。
 それに反してヨベルは普段とは少し違う珍しいイクスの様子が面白いのか小さく笑いながら使い終えたタオルを畳む。
 その表情を見たイクスの中に不思議な感覚が湧き上がった。
 近頃彼が見るモーリンの顔は不機嫌なことが多い。
 女性の数が多い城故に仕方のないことなのだがイクスにとってはそれはとても幸せなことなので「不機嫌の理由」とはなかなか直結しないのだ。
 だからこそ今目の前に居るモーリンによく似たヨベルの浮かべる笑顔はとても新鮮にイクスの目に映った。

「笑ったら、やっぱり可愛いんだね」

 それは独り言の呟きだった。この時イクスは確かにヨベルの笑顔にいつか見たモーリンの笑顔を重ねていた。
 しかし。

「は、はぁっ!?あんた本当に頭沸いたんじゃないのか!?」

 そんなイクスの心の内など分かる筈もなく有り得ない相手から有り得ない言葉を呟かれたヨベルはといえば、怒りなのか恥ずかしさなのか分からない部分から顔が赤くなってしまい慌てて仮面を下ろそうと手を伸ばして。
 その手が髪の毛にしか触れないことで初めて顔を洗うのに邪魔だからと仮面を部屋に置いてきた事を思い出した。

「あ、あんた本当にザフラー先生のところ行って来いよ!絶対!」

 そう言い捨ててヨベルは慌てて駆け出した。何となくこのままここにいてはいけない気がして。
 一方取り残された形になったイクスは、何とはなしに今見たヨベルの顔を思い出していた。
 顔を赤くして怒る顔は似ていると思ったはずのモーリンとは違う表情で、どこか初心な印象も与えるそれは

「可愛い、よね」

 そう自然と自分の口から滑った言葉に自分で驚く。

「これは本当に一度医務室に行った方がいいかもしれないね。となればユーニスさんにも会えて一石二鳥だ!」

 既に普段の自分を取り戻しながら冷たい水で顔を洗い頭がすっきりして初めて、彼という人物からすれば異常としか言えない思考が浮かび上がった。

「そう言えば…あの子の名前、聞いてなかったな」

 イクスが生まれて初めて同性の名前を聞き逃した事を気にかけた瞬間だった。


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