春の戸
 賑やかな食堂での昼食を終えたヒナはきょろきょろと辺りを見回した。つい先ほどまで隣の席で食事をしていた筈のシャバックが居なくなっていたからだ。
 アストラシアの剣姫たちと少しばかり言葉を交わしていた間にどうやら席を立ってしまったらしい。
 根は優しい彼のこと。恐らく会話中に言葉をかけるのをよしとせずにこっそりと出て行ったのだろう。
 特に差し迫った用件が有る訳ではなかったが何となく気になってシャバックを探す為ヒナは食堂を出た。
 この城は思うより広いので誰かに聞かなければ埒はあかないだろうが声をかける相手を間違えたら最後なかなか解放してもらえなくなる。
 どうしたものかと思案しながら歩いていると酒場のカウンターを拭いているエリンの姿が目に入った。
 丁度作業を終えたのだろう様子にヒナは彼女ならばと歩み寄る。
 するとエリンは声を掛けるより早くヒナに気がついて微笑みを浮かべた。

「こんにちは、ヒナさん」
「こんにちは」

 エリンは気さくで接しやすく何よりもヒナの地雷を踏むようなことを言わないのでいつも和やかな会話をする事が出来る。
 そんな彼女をヒナはこっそりと気に入っていた。

「実は少しお伺いしたい事があるのですけれど…」
「聞きたいこと?なんですか?」
「シャバックがどちらへ行ったかご存知ではありませんか?」

 身長差の為少しばかり見上げる形になりながらヒナが問い掛けるとエリンは笑顔を深くした。

「さっき、書の部屋へ行くって出て行かれましたよ」

 つい先程の事を思い出しながら応える。丁度カウンターを拭き始めた頃にシャバックが食堂から出てきて2、3言葉を交わしたのだ。

「書の部屋ですか…ありがとうございます。行ってみることにしますわ」
「ええ、いってらっしゃい」

 ヒナの歳から考えれば正しすぎる型の礼を一つして去っていく後ろ姿を見送るエリンの表情は優しい。
 なんだかんだと言いながら付かず離れずな二人が彼女には微笑ましく映ったようだ。



 城のホールはいつも騒がしい。
 ここには常に誰かしらが居て賑やかしく会話をしていたり依頼を持ちかけたり請け負ったりしている為だ。
 その騒がしさは時に吹き抜けになった空間を伝って上階にまで届いてしまう程。
 今とてそれは例外ではなくモアナを中心に大変かしましい。
 クエストへ赴く人選で揉めているのか声を荒げるモーリンをヨベルやリウが宥めているのが見えた。
 そんな様子に小さな笑みを浮かべながらヒナには少し高く感じる位置にある釦を押すと僅かに軋んだ音をたてて壁に取り付けられた扉が開いた。
 この城に来て初めて目にした『えれべーた』という動く箱はとても便利で、下手をしたら怠けてしまいそうだと思わせる代物だ。
 扉の先のその箱に乗り込み階数の釦を押すと扉が閉まりゆっくりと空間が動き出す。
 初めて乗った時こそその不慣れな浮遊感に居心地の悪さを感じたりしたものだが今ではそれにも慣れてしまった。
 階段をぐるぐると上がるよりも各段に早くたどり着いたフロアで箱から降りたヒナはそっと視線を左へと巡らせる。
 そこには書の部屋の入り口が有って。
 何となく様子を伺うようなゆっくりとした足取りになりながら近付くと、入り口の影からそっと中を覗き込んだ。
 窓際に並べられた書の前にムバル、その側の机に向かうルオ・タウ。本棚を見上げるマナリルが居て、少し離れた本棚の前にシャバックが居た。
 どうやら中では会話が進行しているらしく声を掛けるのは少しばかりはばかられる。
 それでなくても今の室内にはヒナは大分と入りにくい。何故ならマナリルが居るからだ。
 別に彼女が嫌いな訳ではないし立場からしても色々としてみたい話だってある。
 しかしそれらを天秤に掛けてもやはり針は近付きたくない方へと振れてしまうのだ。
 三つも歳の差が有るにも関わらず身長は大して変わらない。それはつまりヒナのコンプレックスである成長の遅さを視覚的に突きつけられるという事で、シャバックが居る今のこの場所でマナリルと並んだりしたら今度はどんな風にからかわれるか。
 それは驚く位に容易に想像できてしまってヒナは無意味に胸のむかつきを覚える羽目になってしまった。
 そんな事を考えながらもヒナの視線は一心に室内の様子へと向けられている。
 シャバックはこちらに気付く様子もなく本棚の中から本を取り出してはムバルに質問をしていた。

(そういえば、学者の方から聞く話は色々と有益だと、前にも言っていましたわね)

 ヒナとて読書や知識を新たに仕入れる事は嫌いではなくむしろ好ましい。
 故郷から離れたこの大陸には当然では有るが知らなかった事も少なくなくとても知識欲を掻き立てられるのだ。
 以前一度だけこの部屋を訪れた際にとても気になる文献を見つけたのだが、それは本棚の大分上の方に鎮座していてどう足掻いてもヒナの手の届く距離ではなく。
 試しに思い切り手を伸ばしてみだがやはり結果は目に見えていて、しかもそれを見たムバルにどの本ですか?などと優しく問い掛けられては恥ずかしさが最高潮に達してしまい、大丈夫だと取り繕って慌てて書の部屋を後にするしかなかった。
 それを思い出せば余計にここには入りにくい。
 元々シャバックに何か用が有った訳ではなし、無理をして中に入る事もないかなどと思い始めた頃。
 それまで離れた位置で本棚を見上げていたマナリルがシャバックに近付いて行くのが目に入った。
 距離近い二人の姿は普段の自分達が並んだ具合を客観的な形でヒナに見せつけて。

(…まるきり、大人と子供ですわね)

 彼と自分が並んでも他者の目には今自分が思ったのと同じに映るのだろう。
 それがヒナにはとても悔しい。
 片手程しか年は変わらない。あまつさえ同級生ですらあったのに、どうしたって対等にはなれない気がして悔しさが更に募った。
 子供扱いを受けるのは屈辱だ。
 年齢的に見れば正真正銘まだ子供なのだが、自分の見た目がそれを助長するのが許せない。
 学院で唯一自分をさらけ出せたシャバックだから。そんな彼に子供扱いを受けることは怒りも有るが悲しくもあるのだ。

「シャバックさん…あの、お願いがあるんですが…」
「ん?何?」

 おずおずと紡ぎ出されたマナリルの声でヒナの思考は現実に引き戻されてしまった。

「あそこにある本を取って頂けませんか…?どうしても手が届かなくて…」
「へ?ああ、そんな事か。別にいいよ。あの本だけでいいの?他にもあるならついでだから取るけど」
「良いのですか?ありがとうございます!それでは、あの緑の本とあちらの赤と茶の本と…」

 嬉しそうに笑ったマナリルが指差す本をシャバックがひょいひょいと手際よく本棚から下ろしてくる。
 きっとあれがヒナであったなら、シャバックは本を取ってはくれるだろうが色々とからかわれていたのだろう。
 そうしてそれに言い返す自分ばかりが熱くなりシャバックはただ楽しそうに笑うのだ。
 そもそも今のマナリルのように素直に願い出られたかすら怪しい。
 必死になって背伸びをしてそれでも届かずに、その様を目にしたシャバックに「無理するな」と言われるのがオチかもしれない。
 それを思うヒナの胸がきゅうっと軋んだような気がした。
 何だか急に現実を直視してしまった気がして居たたまれなくなったヒナはくるりと踵を返すとそのままぱたぱたと体重の軽さを思わせる足音で階段を駆け下りていった。



 さわさわと揺れる木々の葉の音に流れ落ちる水の音が重なる。
 あの後一度はホールに戻ったヒナだったがどうにもいつもの湖のほとりに赴く気になれず、屋上まで上がって来たのだ。
 今は人気がなくとても静かでヒナは木陰になっている壁の縁に手を乗せてのんびりと景色を眺める。
 遠く広がる湖は海とは違い波が穏やかで空の青をくっきりと写していて。
 こんな風に見下ろす形で遠くまで見渡すのは初めてで思わず景色に見入ってしまった。

「こんにちは、お一人ですか?美しいお嬢さん」

 不意に背後から掛けられた声にヒナが振り返る。そこには予想に違わずイクスが立っていた。

「あら、こんにちは」

 彼とは何度か共に団長に付いて出掛けた事も有るので自然と笑みを浮かべて迎える形になった。

「君のように美しいお嬢さんがこんな所で一人なんて。…何かあったのかい?」
「どうしてそう思うのですか?」
「少しだけ顔が曇っている気がしてね。勘違いならごめんよ?」

 恐らく生まれついてなのだろうフェミニストの彼の口調は限りなく優しく。また女性の機微にも敏感とあれば靡く女性が居る事も頷けた。
 ただそれはイクスという男が好みのタイプに合致した場合のみの話だろうが。

「…何かあったと言うほど大袈裟な事ではありませんわ。これは…ただの自己嫌悪ですもの」
「自己嫌悪?君のような可愛い人に何を自己嫌悪することがあるんだい?」
「可愛いって…!私は子供でも愛玩物でもありませんわよ!」
「え?うん…知ってるよ?」
「…え?」

 日頃フェレッカに掛けられているものと同じ単語に過剰とも言える反応を返したヒナにイクスはぽかんとした顔になり、そんなイクスの言葉に今度はヒナがぽがんとする番になって。

「僕が言った可愛いはそういう意味じゃないよ」

 言いながらイクスは笑う。

「子供とか愛玩とかじゃなく、ひとりの女の子として君は可愛いと思うよ」

 ああ、これが俗に言う天然物のタラシというものなのかとヒナは理解した。
 特に彼の質の悪い部分はそれが策略や下心から出た言葉ではなく100%の本心から紡がれているという事だろう。
 柔らかな笑みを浮かべたままのイクスが再び言葉を発しようと口を開いて。

「見つけたわよ!イクス!」

 しかし聞こえてきたのは全く違う人物の声だった。
 驚きつつ二人して声のした方を伺えばそこには肩を怒らせたモーリンの姿。その後ろにはヨベルの姿も見える。

「少し目を離したらすぐこれなんだから!」
「どうしたんだい?モーリン」

 ずかずかと歩み寄ってくる彼女の言葉にイクスは首を傾げそんな彼の腕をモーリンの手が掴む。

「団長が私たちと一緒にイクスにもクエストに行って貰いたいんですって。だから迎えに来たのよ」
「そうなのかい?モーリンと一緒なら楽しそうだ。…それじゃ、またね」

 ひらりと手を振るイクスにヒナは礼を返して背中を見送る。

「…何が団長が、だよ…姉ちゃんが散々イクスも一緒じゃないとってゴネたくせに…」

 ぶつぶつと文句をもらしながらもその後を追っていったヨベルにはヒナも小さく笑ってしまった。
 場に静けさが戻ると再びヒナを包むのは葉擦れの音と落ちる水の音だけになった。
 ふと先程のイクスの言葉を思い出す。
 あんな風にもしもシャバックが言ってくれたなら自分も言葉を荒げる事はなく穏やかに時間が流れたりするのだろうか。
 もしもシャバックがあんな風に言ってくれたなら。それを思い少し想像してみたのだが、どうにも歯が浮きそうになってしまって肩が揺れる。

「ふふ…そんな柄ではありませんものね」
「何が柄じゃないんだ?」
「ひっ…!」

 今し方想像したのと同じ声色で突然声を掛けられ心臓が飛び出すのではないかと思った。

「シ、シャバック…!」
「何か随分楽しそうだったけど、良いことでもあったのか?」
「い、いいえ。大したことではありませんわ」
「ふーん?」

 未だ早鐘を打つような心臓を無理やり沈めようとすればどこかつっけんどんになるヒナの言葉によく分からないといった顔をしながらシャバックが歩み寄ってくる。
 不意にヒナの頭の中に先程書の部屋で見た光景が蘇った。
 傍目から見た印象がそうであるようにシャバックの目にも自分は子供に映っているのだろうかという疑問は浮かんでもそれを口にする事は出来ない。
 口にするという事は自分で自分が子供だと認める事になってしまうから。
 今のヒナは学院も卒業しているし首長の姪としての果たすべき責務も負っている。
 それでもこの外見だけで子供だと言い捨てられることは屈辱以外のなにものでもないのだ。

「ああ…そうだ、ヒナ。この本読むか?」
「え…?」

 思い出したようにシャバックが差し出してきた本を受け取ってヒナは僅かに目を見開く。
 手渡されたそれは、以前書の部屋で手が届かず読むのを諦めた本だった。

「この本は…」
「書の部屋から借りてきた。ヒナ、こういう本好きだろ?」

 驚いた。この本は普通の人は勿論子供では絶対にタイトルだけで頭痛を引き起こしてしまうのではないかという類の難解な本だ。
 もちろんこの本を読みたいのだとシャバックに話した記憶もない。にも関わらずこの本を選んできてくれたということがどうにも不思議で仕方ないのと同時に少し嬉しくもあった。

「確かにこういった類の本は好きですけれど…借りてきたシャバックが先に読むべきだと思いますわよ?」
「あー、それは駄目だな」

 もっともと言えばもっともなヒナの意見にもシャバックはからからと笑うばかりで首を横に振る。

「俺じゃその本は途中で詰まるのが目に見えてるからな。ヒナが先に読んでてくれれば意見とか見解を参考にできる」
「なんですかそれは!結局あなたの都合優先ではないですか!」

 少しとは言え嬉しくなってしまった自分の勘違いに自分で腹が立ち手にした本を返そうとしたが一瞬早くそれはシャバックの手によって抑えられてしまった。

「まあ、全部は否定しないけどさ。でも、俺がその本を読みたいと思ったのはヒナに持ってってやろうと思って手に取ってからだぜ?」
「え?」
「それに、ヒナなら読んだ後に自分で色々仮説立てたり解釈まとめたりするだろ?そういうのを聞くの、楽しみなんだよ」

 そういえば学院時代もそうだったとヒナは思い出した。いろんな本を読んでは、解らないことや彼女なりの解釈を聞かれたり意見を交換したりもしたものだ。
 今にして思えば、5も歳の離れた自分の意見をシャバックは尊重し決して無碍にすることはなかったように思う。

「ヒナは頭が良いからな、昔から。勉強のことはヒナに聞くに限るよ」

 学院時代からのモットーだと茶化しながら笑うシャバックの言葉はしかしヒナの心を小さく揺さぶった。
 今までシャバックは自分のことを年相応の子供だとしか思っていないのだとヒナは信じて疑わなかった。学院時代のことにしてもあまりに日常過ぎてそれが特別なことだなどとは思いもしなかったのだ。
 しかし。もしかしたらもしかしなくてもシャバックが自分を子供と”しか”思っていない…というのは間違いだったのかもしれないという思いがヒナの中に生れていた。
 たとえ1つであったとしても自分よりも”大人”であるシャバックが自分を頼りにしたり期待したりするものがあると思うだけで、随分と心が軽くなる気がした。

「…それでは、この本…本当に私が先に読ませて頂いても構いませんのね?」
「ああ。どうぞ」
「……ありがとうございます、シャバック。……この本を選んで下さって」

 こんな風に礼を言うことは当たり前の礼節であるのだが先程気付いた事実の為か無意識にヒナの頬は薄く紅潮し、そこに淡いはにかみが添えられるとシャバックの動きが一瞬止まって。

「かわいいな、ヒナは」

 そんな言葉とともに自分の肩よりも更に下にあるヒナの頭をシャバックが撫でるまでには数秒を要した。

「シャバック!フェレッカのようなことを言わないで下さいまし!」

 シャバックの手はすぐにいつものような反発に払われてしまい当のヒナはそのまま場を後にすべく階段に向かってしまった為慌ててその背中をシャバックが追っていく。
 さりげなくを装い発した言葉は予想通りの反応で退けられ満足そうに歩くシャバックとは対照的に階段を降りるヒナの顔は悔しげで。
 彼の手に頭を撫でられた瞬間蘇った先程のイクスの言葉に一瞬で耳が熱くなってしまい、恐らく真っ赤になっているだろうそこを必死に髪で隠しながらヒナが足を速めているなどとは、シャバックは知る由もなかった。



「子供とか愛玩とかじゃなく、ひとりの女の子として君は可愛いと思うよ」



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