思考変動
「お前は樹海を出て少し変わったようだな」
 言われたその言葉の意味を彼は上手く理解することが出来なかった。



思考変動



 開かれた窓から柔やわと吹き込む風は温かく微かに髪を揺らしていく。
 それを気にも止めないままルオ・タウは資料の紙束をまとめているが、その手つきは普段のそれに比べ幾分頼りなく速度にも欠けていた。
 それは本人も自覚があって、しかしその理由は彼自身にも少しばかり意外なことだった。
 仕えるべき主、リウ・シエンが城を空けている。
 ただそれだけのことだ。かの人が城を空けることは別段珍しくはない。
 団長や友人達に誘われ連れだってはランブル族の引き受けた仕事をこなしに出掛けていく。
 しかし今回は少しばかり状況が違っていた。
 ひとつは、リウ・シエンが自ら言い出したということ。
 そしてもうひとつは、彼がこの世界に居ないこと。
 文字通りリウ・シエンはこの世界には居らず百万世界の中の一つへと向かって行ってしまった。別の世界に見たスクライブに会うために。
 そうすることをリウ・シエンから聞かされた時ルオ・タウは異議を唱えなかった。彼が考えていた事は利に叶っていたし知識を増やす事は有益だと思ったからだ。
 そうしてリウ・シエンが百万世界へと旅立ち幾日が過ぎて。
 何故か妙に重く事の次第を理解した。
 リウ・シエンはいない。この世界のどこにも。どんなに彼の身に刻まれた書の気配を探しても。
 彼は居ないのだ。
 それを明確に理解する度にルオ・タウは自分の中の何かが小さく軋むような感覚を覚える。
 樹海に居た頃には感じた事のない軋み。それが意味するものを見いだすことが出来ない。それは彼を思考の海へと沈めて。
 気付けば作業する手は止まってしまっていたし、窓の外の空はいつの間にかその色を濃い茜へと変えていた。
 その色は人の心に感傷を呼び起こすのだという事をルオ・タウは実感した。
 窓の外に望む木々も屋上からとめどなく落ちる水も茜を帯びて色彩を変え、彼の立つ室内は燃えるように輝かしい緋を広げてその色をルオ・タウの全身にも纏わせる。
 普段は血色の余り良くないように見える肌も今は生気に満ちあふれているように見えて。しかしどこか哀愁も滲ませた。
 ゆっくりとルオ・タウの視線が室内を嘗める。
 作業机に。その前に据えられた少しばかり大振りな椅子に。寸分の乱れもなく整えられた寝台に。そして目の前の足元に。
 そこには誰も居ない。ただ緋色に灼かれた空間が在るだけ。
 そこに居るべき主が居ない。
 またルオ・タウの中で何かが軋んだ。リウ・シエンが居ないということ。その事実だけがルオ・タウの中にある何かを軋ませる。
 それはある種の切なさに似ていた。それを理解した彼の中に小さな一つの道筋が生まれて。
 ふ…と小さく零れた吐息に自覚する。これが懸想に呼び起こされた軋みであることを。
 ゆっくりと目を伏せたルオ・タウの頭の中に言葉が蘇る。

『お前は樹海を出て少し変わったようだな』

 折を見ては樹海へ足を運ぶリウ・シエンに付き添った時にハウ・シーにかけられた言葉だった。
 その語調が決して良い意味を含んでいる訳ではないことを物語っていたのも覚えている。あの時のルオ・タウはその意味を上手く咀嚼出来ず奇妙な感覚を味わった。
 しかし今ならば分かる気がした。今抱き始めている感情は間違いなく樹海に居たままでは得ることはできないものであっただろうから。
 そういった小さな変化が少しずつ少しずつ人知れず連鎖反応を起こしていくのだ。
 再び瞼蓋を押し上げたルオ・タウの視界に広がる世界は次第に燃え立つ色に鈍色を滲ませ始めた。
 そろそろ冷えが増す頃合いだと思い立ちようやく窓を閉めたルオ・タウが不意に何かを感じて背後の戸を振り返る。
 そこには音もなくただゆったりとリウ・シエンが立っていた。
 開けた戸を閉めることもせずにじっと夕陽に染められたルオ・タウを見つめている。

「…長?」
「あ…うん。ただいまー」

 まるでその存在を確認するかのように名を呼んだルオ・タウの声で正気に返ったようなリウ・シエンは慌てて戸を閉めて室内に歩みを進めた。
 たったそれだけのこと。
 にも関わらず室内は賑やかさを増したように感じられ軋みはすっと溶けていく。そう感じてしまう己の感覚を自覚してルオ・タウは微かに口許の力を弛めた。

「お疲れ様」
「さ、さんきゅー」

 不意にルオ・タウの口をついた労いの言葉にリウ・シエンは気恥ずかしげに返事をして荷物を床に下ろす。

「いやー、やっぱり行って良かったよ。色んな話が聞けたし、かなり有意義だったな」
「そうか」

 まるで自分が感じている気恥ずかしさを飛ばすように話し始めたリウ・シエンの言葉にルオ・タウは相槌を返したがそれは続いた言葉に遮られた。

「そうそう、向こうの世界ではルオ・タウが長でさ!いやーびっくりしたけど、やっぱり納得だったな。しっくりくるってゆーか」
「……何?」
「何か長同士ってので意気投合しちゃってさー。色んな話が聞けたし情報交換も出来たし、本当行って良かったよ」

 リウ・シエンの言葉が耳に届く度に先程溶けて消えた筈の軋みが蘇る。そしてそれは大きさを増し始めているようにすら思えて。

「随分、気が合ったようだな」
「そうなんだよー。思ってたよりだいぶ打ち解けやすかったかもしれねーな」

 目の前でリウ・シエンが語るのはルオ・タウの事ではあるが、それはルオ・タウであってルオ・タウではなく。
 同じような姿形を持ち、同じような声で話し、同じ名を持ってはいても。
 どんなに似通っていても同一ではない。
 その同一ではない『ルオ・タウ』にリウ・シエンは気を許し意志を交わし言葉を交わし疎通を得ている。
 付き従うと誓った自分よりも近い距離感を感じ取って、それが軋みを呼び起こす。
 それと同時に冷静な彼の頭は状況を整理していて。

(長同士という立場ならば思い当たる悩みなどにも共通するものが有るだろう。立場が対等であるのだから馬があっても不思議はない)

 そう、不思議はない。
 それが分かっていながら感じる軋みが煩わしい。未経験の感覚は不安定さを呼び起こしていた。

「あちらを…気に入ったか?」

 柄にもない。そんな問い掛けが唇から滑り落ちる。
 そのらしくなさに不思議そうにリウ・シエンは眉を持ち上げはしたがそのまま自然に笑みを浮かべた。

「まーね」

 ぎちっ。
 リウ・シエンの肯定の言葉を脳が認識した瞬間に息が止まる程の軋みが、聞こえる筈のない音で鼓膜を震わせる。
 しかしそんなルオ・タウの機微など知る由もないリウ・シエンは身を屈めごそごそと持ち帰った荷物を袋から取り出して並べていく。

「みんなに色々お土産頼まれてさー。重いのなんのって」

 からからと笑いながら発せられる言葉も今はルオ・タウの耳をすり抜けていくばかりで。

「みんな喜んでくれたらいいんだけどな」

 屈めた体を再び戻しひとつ伸びをしたリウ・シエンは一言も発さないルオ・タウを振り返ると彼のよく知るいつもの笑顔を浮かべた。

「お前への土産は、オレで十分だよな?」

 言われた言葉の意味が一瞬分からずルオ・タウはリウ・シエンを凝視しそして一度ゆっくりとまばたきする。

「ルオ・タウ、今にも捨てられそうな犬みたいな顔してるぞ」

 理解不能なその言葉は全くと言っていいほどにルオ・タウの想像力を駆り立ててはくれなくて。
 自分がそんな表情を浮かべられるなどとルオ・タウ本人は露ほども思っていないのだ。
 明らかに解せていない彼の表情にリウ・シエンは堪えきれないのか堪える気がないのか笑みを零して。

「お前、樹海出てから何か変わったよな」

 楽しそうに言うリウ・シエンの顔にはあの日のハウ・シーが滲ませていたような色は微塵もなくて。

「確かに向こうの事は気に入ったし意気投合できて楽しかったけど、やっぱりオレはこっちのがいいよ」

 たったこれだけの言葉でルオ・タウの中にあった軋みや何やが全て綺麗にとけていくのが分かる。
 この日初めてルオ・タウはリウ・シエンへの懸想の中に滲む尊敬の念に気がついた。確かに自分は少しずつ変わっているのかもしれない。
 そしてそれは紛れもなく今目の前に居るリウ・シエンに引き出されたものなのだ。
 それをようやく理解したルオ・タウは微かな笑みを表情の一面に広げた。


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