感情変動
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「それでは、今夜はこれで失礼する」
「うん。おつかれさーん」
仕事をしている内にあっという間に日が暮れて夜が更けてしばらく経った頃いつも通りのこんな言葉が交わされてルオ・タウはリウ・シエンの部屋を出て行った。
閉まるドアを見送ってリウ・シエンはうーんと声をもらしながら大きく伸びをする。
長く机に向かっているとどうしても肩や背中が凝ってしまっていけない。
「そろそろ寝ようかなー」
伸びの体勢からそのまま背もたれにどっかりと体を預けて天井を仰ぐ。
ぼんやりとそのまま見上げている内に過ぎた時間はどれほどだろう。じわじわと自分の中に湧き上がってきた感覚にリウ・シエンは細く息を吐き出した。
「うーわー。またきたよー」
抑揚なくだらりと言って体を背もたれからはがし、リウ・シエンの体が泳ぐ位には大きい椅子の座面に両足を乗せて抱えるようにして背を丸める。
じわりじわりと湧き上がってくる、淋しさにも焦燥感にも似た渇く感覚。それが体中に蔓延していく。ここの所毎日だ。
「なんなんだよもー…」
体中が渇いて干上がってしまいそうで、じりじりと湧いてくる焦らされるような居心地の悪さが嫌だ。
ここ何日も、毎晩必ずこの感覚は襲ってきている。理由が分からない。
いつも通りに仕事をして、いつものように同じ言葉を交わしてルオ・タウが部屋に帰っていき、そして独りになって一息つくと必ずなのだ。
この感覚に名前はあるのだろうかと思うことは何度も有ったが該当するような答えは浮かんでこないし、これまでにこんな事は一度もなかったので経験から答えを導き出す事もできなかった。
干上がって、じりじりと焦らされて、そして無性に淋しい。こんなのは知らない。
「………はぁ〜…」
ついには切なげなため息まで漏れてしまっていよいよ自分らしくないとリウ・シエンは更にため息をもらした。
昨日までは気合いで感覚に抗って無理やり眠りに落ちることが出来たが、今日はもうさすがに何か気分転換をしなければ大人しく眠ることは出来なそうな風向きだ。
すでに夜は大分と更けているから出来ることには限りがあるだろうし、さてどうしたものかとリウ・シエンは思考を巡らせようとした。
しかし巡らせるまでもなく浮かんできたのはルオ・タウの顔で、ついさっきまで一緒に居たからかなとあっさり片付けてしまった為に焦燥感や切なさが増したことに本人は気づかない。
(ルオ・タウも毎日遅くまで頑張ってくれてるし、多分まだ小さい仕事とか片付けてたりするだろうから、たまにはお茶でも持っていってみようかな?)
長に茶を汲ませるなんてと思いそうな彼ではあるがたまにはそんなのも良いだろうとようやくたどり着いて見つけた絶好の理由を手に、抱えた膝を離して椅子を降りようとリウ・シエンは腰を浮かせた。
コンコン。
ヘタレと呼ばれるに相応しくリウ・シエンは突然のノックの音に盛大に心臓を鷲掴まれて。
「ひぁわぁっ?!あ、どう、ぞ、わ、た、た、あ…!」
何とか返事を返しはしたものの浮かせた腰を再び落ち着けることは出来ずにバランスを崩しそのまま盛大な音を立てて床に落下してしまった。
「何事だ、リウ・シエン」
ドアの外で状況が分からず盛大な落下音だけを耳にしたルオ・タウが部屋の中に踏み込んできた。
声音も見た目も落ち着いて見えるが瞳に若干の焦りが滲んでいる事に気付ける者は殆どいないだろう。
ルオ・タウは椅子の下で強かに打ちつけた尻をさすっているリウ・シエンを素早く見つけてそちらに歩み寄ると、手を伸ばして彼の腕の下に自らのそれを差し入れて難なく抱き起こしてしまった。
「何をしている」
「いや〜、申し訳ない…」
若干呆れが感じ取れるルオ・タウの言葉にリウ・シエンは冷たい汗を滲ませながら苦笑いを浮かべるしかない。
しかし、ここで気づいた。さっきまであれほど体中を灼いていた感覚が綺麗さっぱり消え失せていることに。
きょとんとした顔で見上げるとルオ・タウは不思議そうな顔で見下ろしてきて僅かに首を傾ける。
たったそれだけの事であれだけ枯れていた心がじわりと潤う気配をリウ・シエンは感じた。
さっき助け起こしてくれた腕はまだ自分に回されたままでそれに気づくと更に心が温かくなった気もして。
「あ〜…あーあーあ〜…ヤバいんじゃないんですか?これって…」
そんな変化の意味する所に薄々と気づき始めたリウ・シエンはため息めいた吐息を一つ吐き出して。
「リウ・シエン。何かあったのか」
状況分析が出来ないのだろうルオ・タウが声を掛けるとリウ・シエンは困ったような開き直ったような不思議な表情で笑った。
「ルオ・タウ、ちょっと頼みがあるんだけど」
「…長の願いならば」
承諾を示す返答にリウ・シエンは小さく頷く。
「ありがと。じゃあちょっとの間じっとしてて」
それだけ言って返事も待たずにそっとルオ・タウにもたれかかり背にゆるりと手を回してみる。
すると自分でも驚くほど心の充足感が増していくのがわかった。これはもう確定的かもしれない。
しかし、充足感が増していく原因はもう一つある。
「…オレ、じっとしててって言ったんだけどな〜…」
「そうだったな、すまない。では離すとしよう」
「別にいいし…」
いつの間にか自分を抱くように回されていたルオ・タウの腕の力を感じると幸福感すら感じる気がして末期的だ。
全くもって自分らしくないこの状況に羞恥がない訳ではないものの心地よさは捨てがたく。
(このまま寝ちゃったら気持ちいいだろうなー…)
先ほどまでと打って変わって満ち足りた感覚にそんな事を考え始めた所でふと思い出した。
「そういえばルオ・タウ、何か用があって戻って来たんじゃないのか?」
「ああ、そのはずだったんだが…」
「?」
途切れた言葉にリウ・シエンは首を傾けやや上向きに見上げた。しかし
「忘れてしまった」
言ったルオ・タウが小さく笑ったような気がして何やら急に気恥ずかしくなり慌てて目線を下げる。
それを合図にするように回された腕の力が僅かに増して、リウ・シエンは本当にこのまま眠ってしまいたくなった。
この後またいつものように離れれば淋しさや焦燥感や切なさや、そういった感覚を先ほどよりも強く強く感じるだろうことはもうわかっていたから。