胸騒ぎはあった。 予知等というものをわたしは信じてはいないが、確かにわたしの第六感は警報を鳴らしていた。出かける前から何かがわたしの視界に霞をかけていたのだ。それでも、わたしは気のせいだと思う他なかった。しかし、まあ、帰ってきたらこれだ。そう、気味が悪いほどの静寂がわたしを待っていた。 いつも通り家の灯りの多くが灯っていてほっと溜息をついたのも束の間、やけに屋内が静まり返っており、生臭さに吐きそうになった。 わたしはすでに気が付いていた。嵐の前の静けさではなく、嵐が過ぎ去った後の静けさだと。もう、何もかもが済んでいるのだと。 息が荒くなる。息を荒くする。はぁ、はぁ、と呼吸を繰り返すことでわたしは気付かないフリに徹した。大丈夫。そんなはずない。落ち着け。落ち着け。と今更意味のない冷静さを取り戻そうとするのだ。しかし、わたしの躰は相反して、ドク、ドク、ドク、と耳の傍で焦燥を鳴らしていた。 肩で風をきる。早歩きから小走りに、最後には全力疾走していた。大広間のドアノブに手をかけると、恐怖が身体を襲い、戸惑う。ああ、どうしよう。と。もはやわたしに為す術がないことは百も承知であったが、その言葉しかわたしの頭にはなかった。 ああ、どうしよう。下を向けば、赤い、赤い、見慣れたあれが、重厚な扉の隙間から染みだしている。 赤だ。 赤、赤、赤だ。気味が悪いくらいの赤である。紅でも丹でも絳でも赧でも朱でも緋でも赫でもない。ただの赤。純粋なまでに赤。恐ろしいくらいの赤。彼も彼女もあの子やその人、みんなみんな、服に薔薇を咲かせたように染まっており、肉体は塵と化している。尤も、すべてが塵埃となった今、服装だけで誰かを特定するのは難しいのだが。 傍で、よく見知った丸いボールのようなそれらや、自我を持ちはじめた彼らが床に広がる血を啜っている。愉快そうにしていて腸が煮えるような思いに駆られ、暖炉の火掻き棒を手に取り、それから、頭部を潰した、のだと、思う。よくわからない。覚えてない。カッとなった、わけがわからなくなった。そうしないと気が済まなかった。だから、覚えてなかった。目の前に血溜まりが増えていた。それだけだ。 言うなれば、感情のままに境界を犯した犯罪者になったような気分であった。しかし、もとよりその行為自体を生業としているためか、特に思うところもなく、人間が引いた境界を犯すことに抵抗はなかった。それからもう一つ言えば、わたしの前に転がった彼らの立場に同情はしても情けをかける気もなかった。というより、全てを終わらせたときに気付いたのだから、そもそも考えてすらいなかったのだ。 自分の髪をくしゃくしゃにして蹲れば、掌が濡れ、茫然と掌を眺めると、それもまた、赤かった。 「(…そうか、)」 わたしは殺したんだ。改めてそう思うと途端に泣きたくなる。血は流れていたけれど、どうも“殺した”というより“壊した”と表現する方が正しいような気もした。けれど、そんな些細な問題はどうでもいい。わたしは、殺したのだ。 わたしの中で重要であったのは目の前の塵芥が、わたしの家族とも仲間とも友人とも言うべき人間達であるということだ。 わたしには、家族と程近い関係の者の他には何も繋がりはなく、築きあがった関係の中で呼吸をすることで、やっと生を感じていた。誰かと関わることで初めて、わたしは生に触れ、生きていることになるのだ。 わたしは何も持ってはいなかった。だから、本当に自分の身、一つになったとき、何をしても虚しくなった。残ったものがなかったからである。敵討ちのようなそれも、彼らには悪いが、遣り遂げた瞬間、意味のないことに成り下がった。誰かの親しき人を奪っておきながら、彼らの魂が叫んでいるのを知っておきながら、自分だけ哀しい、だなんて、わたしも相当愚かな生き物らしい。 わたしの虹彩や髪よりもずっと鮮やかなそれは、到底綺麗等とは思えず、むしろとても醜い色をしていた。それを被るわたしも等しく醜いように思えた。ああ、目が痛い。眩しくなるような色である。 噎せ返るような臭いに顔を覆った。そして、ごろりと血の海に身体を委ねると生暖かくていくらか心が落ち着いたような気がする。 奇異な体を授かり親から捨てられたのはいつだっただろうか。わたしは所謂マフィアと呼ばれる者達の頭であった義父と義母に拾われた。よくは知らないけれど、捨てた父と母は死んだらしい。 仕事こそ糞のようなものであったけれど、独り善がりの正義感を振りかざして悪を排除したと思えばなんてことはなく、何よりいいファミリーであった。それこそ“素敵”と呼べるような日常を送っていた。 それから14年である。14年だ。彼は何のためにわたしに多くも少なくもない、あの時間を与えたのか、謎だ。 不意に何者かの気配を感じ、双眸に乗せた腕を退かして身体を起こした。あの丸っこい影と縦長のシルクハットは彼だろう。久しいね。とわたしは声を掛けた。 「これは、あんたが差し向けたのかな。」 わたしの中は答えは出ていた。わたしの目からは涙が流れていたが、構わず笑みを湛えることにした。思った通り、ええ♥と彼も笑みを濃くする。 「どうでしたカ?悲しイ?つらイ?腹はたっタ?…落ち着きましょウ、緋彗♥もっと冷静にならないと、もっと非情になってもらわないト♥」 失うつらさをワタシは知っていル。肩を掴まれ後ろから顔を出して囁く。ああ、こうやって仲間を増やしていくのか。と場違いなテンポで哀れな機械の塊を見やった。彼らの魂はすでにそこにはない。 「しかし、それが大いなる成長へと繋げるのでス♥再び“大切”を失っても、何も思わないように、とカ♥」 前の親、つまり産みの親が片方、千年伯爵と似ていた立場に遇ったらしい。捨てられる前によく顔を合わしていたことは、赤子だったけれど覚えてる。 とはいえ、産みの親より育ての親とはよく言ったもので、立場を同じくすれば考え方も似るのだろうか。彼らは命を奪う、ある種残忍な行為を主な生業としていたものの、仕事の外では酷く人間らしく、生産的行為に目を向け、娯楽に耳を傾け、それを愛し、そして、慈愛に満ち満ちていた。他にも理由はあるのかもしれないが、だからか、他者を切り捨てるといった考え方はわたしには向かなかった。特に、家族とも言える人間を失うというのは、どうしても堪えた。つまるところ、献立に難癖をつけられたときのような受け取り方をする奴が憎かった。 呟くように、ふざけるな。とわたしは言う。それはどうも気分が高揚しているらしい彼には聞こえなかったようで、え?何か言いましたカ?等と彼はわたしに繰り返すよう促した。 わたしとて、自らの関わりを尽くなきものとされたのにも拘わらず、同じ言葉を素直にそのまま繰り返してやるほど気は長くないし、お人好しでもない。ギリギリと床に爪を立てると黒玄武で出来ているそれが深く抉れた。 「…ふざけるなって言ったんだよ。自分の都合だろう、それは。恩着せがましい!わたしが何を求めていたか、わかってたくせに!」 「緋彗たま!伯爵たまに口が過ぎるレロ!!」 彼の手にしていた傘の先端にあるカボチャが口を開き、嗜める。わたしは、それにすら腹が立った。この状況で黙っていられるほど、わたしは気も長くないが、お人好しでも、心中穏やかでもないのだ。 「わたし、怒ってるの。だから、」 「緋彗たま、」 「少し、」 「でも、」 「黙れ。」 スッと焦点を動かせば、レロは身を固くする。一方、彼は相変わらず笑みを絶やさない殻の中で、怖い怖イ♥とわたしをじっと見つめた。 「まあ、また出直すことにしましょウ♥」 そう言うと一歩さがり、二歩さがり、三歩さがって闇に紛れる。追い掛ける気力はなかったし、追い掛けて何ができるわけでもなく、わたしはそこに立ちすくんだ。わたしは悲しいのだろうか。つらいのだろうか。腹立たしいのだろうか。たぶん、どれも当てはまるような気がした。一言で言うなら、悪いものすべてを混ぜたような気分だ。気持ちが悪い。 口を押さえようと右手を動かしたとき、左肩に鋭い痛みが走って慌ててそちらを押さえた。燃えるような痛みと貫かれるような痛みに脂汗が浮かぶ。ギリギリと歯を食い縛り、そこを視界に入れると濃い五芒星が現われていた。 「(しくじった…っ、)」 おそらく、肩に手を置いた瞬間に刻まれたのだろう。ただの印なのか呪術なのかはわからないけれど、いいものではないことは確実に言える。 痛くて痛くて爪を肌に食い込ませると、いくらかましにはなったけれど、痛みの波が短くなっていく度につらくなった。 「(あれ、目が、眩む…。)」 そしてわたしは気を失ったのである。 *** 「起きろ。」 知らないような知っているような声がそう言い、横っ面を蹴飛ばされて意識を取り戻した。どうやら目の前の蛇を思わせる男が声を発し、足を振り上げたらしい。誰だと聞けば、脳味噌の容量が小さい等と嘲笑され、彼は暗く狭い小部屋を出る。そして、扉の向こうで、始めろ。と言い放った。 何を?と聞く暇はなく、聞く相手もおらず、躰が軋み出す。わたしはこの痛みを知っていて、この程度の電圧というものなら堪えられることを知っていた。内側から火で焼かれるような、そんな痛みである。 彼らからしたら“実験”らしいが、わたしの知る拷問と遜色ないものだった。時には炙り、時には潰し、時には切り裂き、時には千切り、時には剥がし、時には抉る。 いたい、いたい、いたい。そう嘆くのは諦めたけれど痛いものは痛くて、それを口に出すといくらか鋭すぎる刺激が緩和されるような気がした。そんな気がするだけで実際はどうなのか、わたしには知る由もないけれど、わたしがそう思うのなら他は関係なく、そう、なのだ。泣いたところで現状は変わらず、躰を貫く電撃はわたしの中を駆け巡り、わたしの臓物は切り開かれ、わたしの双眸が滴る塩水は枯れなかった。泣き方を忘れるだなんて話が有り得るわけがないのだ。感情論で止められるものでなく、遺伝子に組み込まれたプログラムなのだから、わたしがいやだと思っても溢れるものは溢れる。三年近く経っても涙は止まらなかったけれど、三年という歳月を経て、声は枯れて出なくなった。無意味に流れ、体内から水分を奪うだけの不毛な液体は枯れないというのに、助けを呼ぶ最後の頼りが枯れてしまうとは、わたしのからだはどうかしている。ああ、つらい。かなしい。いたい。いたい、いたい 、いたい。嗚咽を漏らすとピリピリと痛む喉がヒュッと鳴って余計に痛みを生んだ。 その時だ。途轍もない破壊音とともに、突然背後の分厚い壁がこちら側に崩れ落ちてきたのである。後頭部を飛んできた大きな破片で打ったこともあり、二秒ほど、事の理解が追いつかなかったが、アクマだっつってんだろ!ぼさっとしてんじゃねえ!!という声変わり途中とも思える、男の、擦れ気味の怒鳴り声で我に返った。わたしを試す冗談か?と数々に実験で培われた疑心暗鬼が現れたが、ここら一帯に響いているのであろう警報が聞こえ、頭を振った。 千載一遇だ。最後に残った力の、ありったけを振り絞って拳を握り直す。手枷の内側から突き出た楔が手首に食い込んで、一層わたしの赤い赤い命が流れ、肘を伝って、ぽたり、落ちた。傷口から露になった神経に鉄が擦れて、じくじくとした。これはきっと、これからずっと、わたしを弱らせていくのに大いに貢献するのだろう。だから、いま、いまこそ、 「(逃げなきゃ。いま、気力の残ってる今のうちに。)」 わたしの持ち得る力の、最後の一滴まで振り絞って、わたしは、わたしを縛りつけるそれらを引きちぎった。足の筋肉は衰えていたから、ペタペタの薄い膜を張ったような翼を出して飛び、逃げる。本来の“悪魔”と叫ばれる姿に戻った方が躰も軽く感じた。 わたしは、自由なのだ。とわたしは翼を思い切り広げた。自由となった今、傷口の痛みなど気にすらならなかった。なにをする?なにをしよう?このまま飛ぶ?歩く?食べる?飲む?話す?遊ぶ?働く? 「(なにができる?)」 そこまで考えて、漸くわたしは結果に辿り着いた。ずっと飛べるだけの体力がないと。歩くだけの力がないと。食べるための、飲むための物も体力もないと。話し相手がいないと。遊ぶ相手なら尚更いないと。雇ってくれる人間すらいない、と。 そうして、わたしにはなにをする自由があっても、なにもできないのだと気付くのである。結局、わたしにはなにもないのだ。だからなにもできないのだ。中身が空っぽ過ぎて、何をすればいいのかもわからなくなった。 季節は寒い冬で、雪が積もっていて、上から見る白い屋根は格別だった。けれど、逃げ出して間もないわたしは切れ端のような布しか纏っておらず、感覚の残っていた一部の肌がとても寒かった。そして、野たれ死ぬのも時間の問題だと思ったその時、わたしの中で燻っていたものがまた燃え上がった。 「(アクマだ!)」 義父と義母、それからファミリーを奪ったあのアクマが白髪の老人を襲っている。わたしの身体は昔から変わっていて、わたしが思うように形を変えたから、鋭く、鋭くなれ。と足をナイフのようにして、踵落としを決める要領でそれを一閃した。怒りというのは不思議と体に力を漲らせるらしい。感情のままに動くのは疲れるからすきではないけれど、大きく息を吸えばなんともない気がした。 「あ、ありがと…。」 「(…、)」 老人だと思ったその人は白髪の少年で、彼は小さく感謝の意をわたしに述べる。この時、わたしがどれだけ左の臓器を震わせたか、彼は知らないし、私はこれまで同様、未来永劫それを口にはしないだろう。 わたしはちょっとした予想外に目を丸くして固まっていた。ケガ…大丈夫ですか?とわたしの傷だらけの肌を見て少年が言うので、擦れた声で返す。当たり前じゃん。と。 「こんなもの、たいしたこ、と、な…い?」 しかし、まともに返せたのは最初だけで、最後まで続ける頃には身体が傾いていた。案外わたしは身体を弱らせていたようだ。少年が焦り、大丈夫ですか!?と声を掛ける。問題ない。とわたしは弱っていることに気付かないフリをした。 「じゃあ、ばいばい。気を付けて。」 覚束ない裸足のまま、ザクザクと雪を踏み分ける。足の感覚はなかった。凍傷にならなければいいと、また一歩足を踏み出すと、前の障害にぶつかりよろける。とてつもなく背の高い男であった。 「馬鹿弟子、遅ぇ。」 「師匠!!」 どうやら彼は白髪の彼と師弟関係にあるらしく、師匠と呼ばれた男は駆け寄った白髪にデコピンをして転ばす。ぶつかっといて謝らないとはどういう了見だと額を押さえて顔を上げれば、どことなく見知った顔であった。 「お前…緋彗か?」 「…………………おまえ、は、」 後に私は言う。再開とは出会いの一種である、と。そして一種のきっかけである、と。 わたしはただ、ご飯と布団と話し相手がほしかっただけなのだ。そして、彼がそのとき何を考えてわたしを引き取ったのかは知らないが、こいつと出逢ったのは偶然であり、神からすれば必然だったのだろう。人が言う、“運命の歯車”なんて言うものはそんなものだ。例えば歴史を変えるはずの誰かが変える前に死んだところで別の人間がそれを行うように、例えば小さな歪が多くあったところで、一定量を超えると正されるように、予定調和がどこかで為されるのだ。あの日、わたしと彼が出逢わなかったとしても、また別の“いつか”に出逢っただろう。或いは、わたしの代わりの人物が現れ、彼らと歩みをともにしたかもしれない。 運命はよく歯車に例えられるが、或る者はこう言った。運命が歯車だとしたら、この世の総ては歯車に磨り潰される砂である、と。全く以てその通りだと私は思う。狂ってしまうものは運命ではなく、私達を問答無用で磨り潰すのが運命なのだ。 最後に、ここまで来て今更ではあるが、私が言いたいのは、私達登場人物と呼ばれるべき者達が抗っても無駄だということではない。この話の登場人物に限らず、皆が総て等しく、平等に“運命”とやらの被害者であるということ、それだけは念頭に入れておいて貰いたいのである。 ‐とある悪祓師の手記より抜粋‐ はい、話めちゃくちゃー。かっこいいこといいたかっただけです。 次のページから昔書いた設定とか。痛々しいとこはカットしました。管理者権限で。恥ずかしいまじで。 見なくて問題ないです。むしろ放置プレイ大歓迎。 20120113修正 |