「ごめん、本当にごめん!」

 下げた頭よりも高い位置に合わせた手を掲げて謝罪の言葉を繰り返す半助に、きり丸は少々うんざりした気分でこれもまた同じ言葉を繰り返した。

「だから、別に構いませんって。風邪引いちゃった野村先生の代わりに二年生の研修旅行の監督なんて、どうしようもないじゃないっすか」
「だけど…今夜から家に誰もいないのに…」
「あぁ、俺のことなら気にしないでください。久しぶりに静かな家で羽伸ばせるんですから、むしろ願ったり叶ったりですよ。万が一何かあっても狭い町ですし、友達もいますしどうとでもなります」
「そ…そうか…」
 なおも申し訳なさそうな半助に痺れを切らして、きり丸は鞄を肩に担ぎ彼の隣をすり抜けた。数歩進んで、そうだ、と振り返る。
「俺、明日も新聞配達あるんで早く寝たいんすよ。荷造りするならさっさとしてくださいね。…お駄賃くれるならやっといてもいいですけど」
「…お前なぁ!」

 拳を握って振り返る半助ににやりと笑みを見せて、きり丸は昇降口を飛び出した。そのまま校庭を突っ切り、はせず、正門の側の教室の窓を叩く。
 教室の中で備品の包帯の個数を数えていたセーラー服姿の少女がこちらを見た。きり丸がひらひら手をふると、窓に駆け寄り、錠を外した。

「きり丸!今帰り?」
「おう、乱太郎は?」
「備品チェックが終われば今日はもう終わり。事情を話したら、新野先生が早く帰っていいって言って下さったんだ」

 私そんなに解りやすいかなぁ、と乱太郎は眉を潜めた。きり丸は少しだけな、と控えめなフォローを入れた。本当は一目見た瞬間なにかあったなとわかるくらい今日の乱太郎は浮き足立っていた。乱太郎の二人の姉、伊作と左近もこの公立大川高校の卒業生だ。そして二人とも保健委員を三年間勤め上げた。養護教諭の新野先生とも浅からぬ付き合いである。彼も早くに両親を亡くしそれ以来自分達の力だけで支えあいなんとかやってきたこの姉妹が家族団欒の時間を如何に大切にしているかを、よく知っている。その上でのはからいなのだろうと思い至り、きり丸の頬は緩んだ。小さな彼女の周りにはいつどんな時でも数え切れないほどの愛情が溢れている。

「じゃあ数馬さんは今日?」
「うん、数馬くんは今夜着く予定。伊作姉さんと伏木蔵は明日寮から帰ってくるんだ。伊作姉さんは一日だけだけど。左近姉さんも珍しく素直に帰るって約束してくれてねぇ。明日は仙蔵さんもしろさんも集まって大宴会なんだぁ」

 頬を上気させて続ける乱太郎の眼鏡の奥の瞳は水槽に落としたガラスの玉のようにきらきら輝いていた。
乱太郎の従兄妹の数馬と伏木蔵の実家は大川市から遠く離れた街にある。だが、兄の数馬は長姉の伊作が学生寮の寮母を始めた年に医学部への合格実績が近隣高校の中でずば抜けていた公立大川高校に入学し、大川市で高校時代三年間を過ごした。また妹の伏木蔵は美術に特化した教育カリキュラムを求めて、つい数年前に公立大川の対岸に出来たばかりの私立大川学園高校の芸術科で学ぶ為に兄と同じく従兄妹が寮母を勤める寮で寝起きをしつつ、大川市で学んでいる。そんなわけで大川市とは切っても切れぬ縁で結ばれた従兄妹達は、彼らを除くともはや唯一の血縁である叔母の命を受け、様子見がてらたまに三姉妹の暮らす家へと遊びにやってくる。その度に、伊作の親友である仙蔵や左近のくされ縁(と言わないと烈火のごとく怒り狂うのだと言う)のしろを交えて宴会を催すのだ。

「きりちゃんも、週末は土井先生と水入らずなんでしょ?進路のこと、ちゃんと話さないと駄目だよ」

 邪気無く言われてしまうと、なんとなく本当のことを言うのが憚られた。曖昧に笑って、じゃあ俺行くわ、と窓枠から手を放した。放して始めて、冷たい無機物だとばかり思っていたサッシが意外と熱を持っていたのだと気がついた。
 じゃあ、と笑みを浮かべて、きり丸はアルミサッシに切り取られた狭い校庭からフレームアウトした。乱太郎はついさっきまできり丸が手を置いていた窓枠に手を触れた。そこはきり丸の温もりが移って、まだ少し温かかった。触れる指先に自然と力がこもる。気がついた時には、窓枠から身を乗り出していた。

「きり丸!」

 自主練習に励むサッカー部員の他は、ほとんど人気のなくなった校庭に木霊した自分の名前に、きり丸は驚いて振り返る。そして今にも窓枠から落ちてしまいそうな程身を乗り出した乱太郎の姿に、更に驚いた。

「何してんだ!あぶねぇだろ!」

 慌てたきり丸の怒声に、乱太郎はびくりと肩を震えさせた。大人しく引っ込んだ鳥の巣頭がなんとも切なげに映って、きり丸は頭を掻き毟って息を吐き出した。

「乱太郎」

 名前を呼んで引き返す。先ほど離れたばかりの窓の奥で眉を潜める少女に首を傾げて見せた。

「数馬さんや伏木蔵に会うのも、久しぶりなんだろ?お前こそ、家族水入らずで過ごせよ」
「仙蔵さんたちもいるけどね」
「あんなんもう、家族みたいなもんだろ」

 四六時中入り浸ってんだからよ、と悪戯っぽく笑ったきり丸につられて、乱太郎もようやく微笑んだ。

**

 暇だ。
麗らかな午後の日が降り注ぐ縁側に二つに折った座布団をお供に寝転がったきり丸は、心の内で呟いて寝返りを打った。
 朝の新聞配達が終わって家に帰ってくると、既に半助は家を出た後だった。毎朝必ず家族全員で囲むちゃぶ台の上の置手紙には、しつこいまでに戸締りと火の元に関する注意事項が書きこまれていて、自分は小学生かと思わず突っ込んでしまった。
朝ごはん兼昼ごはんはインスタントラーメンに決めて乾麺に湯を注いだだけの質素な丼を前に手を合わせた。普段ならばこんな栄養が偏りそうな食事は成長期にあるまじきとして利吉が許してくれないが、その利吉も昨夜からいない。
店から、工場、母屋に至るまで完全に無人だった。座布団の上に頭を預けて瞳を閉じて見るが、なかなか寝付けない。それはそうだろう、ラーメンを食べてから今まで眠りっぱなしでその上まだ眠ろうなんて、どんなに脳が命令を下そうとも身体は言うことを聞きやしない。
ではどこかにでかけようか、と言っても、この休日は皆それなりに予定があると言っていた。団蔵と虎若は兵太夫と三治郎の買い物に付き合わされているはずだし、金吾は相変わらず稽古だろう。喜三太は実家の方から昔なじみが来ると言っていたし、しんべヱは調べ物をしたいから街の図書館まで行くと言っていた。
庄左ヱ門と伊助は夢前商店街の定例会議とかなんとか。つまりだ。

「暇人って俺だけか」

 ぽつりと声を出してみると、がらんどうの家は思いのほか音を反響させて返した。きり丸は瞳を閉じた。表の商店街の喧騒が別の世界の出来事のように遠く感じる。
 それはまるで半助に出会う前の自分の記憶のようだと思う。きり丸の幼い頃の記憶は虫食いだ。学校で学んでいた内容なんかは覚えているが、家に帰ってからの記憶なんかはモヤがかかったように判然としない。おぼろげに浮かんでは消える記憶の断片の情報をつなぎ合わせると、実の両親はそれほど人格者ではなく、きり丸は安普請のアパートの一室に何日も放置されることもあったようだ。それ以上のことは何もわからない。次にはっきり意識が覚醒するのは小学校三年生頃、ふと気がつくときり丸は清潔なベッドの上に横たえられていた。体を動かすと全身が刃物に串刺しにされるような痛みに苛まれたが、それよりも何よりも、きり丸の手を両手で握り締める半助の瞳一杯に溜まった涙が印象に残っている。半助がどういう経緯であの頃の自分とであったのか、それすらきり丸にはわからない。
 それから、しばらくして半助に手を引かれこの大川市にやってきた。新しい両親と、半助と利吉という兄が出来た。新しい家族は群を抜いて年若いきり丸を目に入れても痛くないほど可愛がってくれた。伝蔵は閉店後時間を見つけてランドセルを持っていないきり丸の為に利吉が使っていたランドセルを丹念に磨いてくれた。そのランドセルを背負って新しい学校の校門を潜ったその日、彼女と出会った。君と一緒に転入する子じゃ、と担任に背中を押された小さな女の子は、ふわふわの赤毛を揺らして笑った。それが妙に懐かしくて泣きたくなったのを今も覚えている。
 あれだけ眠れるわけがないとかごちておいて、いつの間にか寝入ってしまったらしい。瞳を開くと、日差しが薄くなっていた。瞳をこすって顔を洗おうと上半身を起こす。俯くと腰の強い直毛が顔を覆い、昼の名残を隠した。
その瞬間、急に錯覚に捕らわれた。例えばこのままずっと誰も帰ってこなかったら。永遠にこの家に一人だったら。じわり、と胸を侵食する気持ちの正体を、きり丸はよく知っていた。立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。ずっと日向で眠っていたからだろうか、喉もからからだ。

「きり丸!」

 聞こえるはずのない声が鼓膜を揺らした。ゆっくり声の方に顔を向けると、縁側と外界を遮断するガラス戸の向こうに、夕焼けをそのまますくいとってきたような赤毛が揺れていた。

「…乱太郎?」

 小さく呟くと、その人影は満面の笑みを浮かべて頷く。そして、ビニール袋を提げた方の手で錠を指し示した。ようやく動き始めた脳が状況を把握する。きり丸は跳ね起きてガラス戸の錠を外した。

「よかったぁ気がついてもらえて」

 あのまま草むらに立ってたら大変なことになっていたかも、と縁側に上がった乱太郎はのほほんと胸を撫で下ろすが、きり丸の渋面は解けない。この藪蚊の季節にノースリーブのワンピース とサンダルなんて、そんな肌を見せる格好をして人ん家の庭に忍び込んで、何を考えているのやら、と眉を潜めたきり丸は、ワンピースの前身ごろにつけられたポケットからのぞく紙片を見咎めて頭を抱えたくなった。朝うちの机に置かれていた店で使っている熨斗紙を切ったメモ帳と同じものではないか。全くどれだけ過保護なんだ。

「どうしたんだよ、突然」

 どこまでも自分に甘い保護者の思惑通りになるのが癪で、あえて何も知らぬ振りで聞いてみる。完全なる八つ当たりだ。ガラス戸の外の坪庭に視線をやったままこちらを見ようとしないきり丸に、乱太郎は一瞬躊躇したが思い切って大きく膨らんだビニール袋を突きつけた。
「今ね、姉さん達に頼まれて、花火を買ってきたんだ。花火は、みんなでやるものでしょう?」
「いや、しらねぇよ」
「ええと…うちんちではね、皆でやるんだ。うちの家訓ではね、花火を一緒にした人は、みーんな家族なんだ。だから、文次郎さんとかも呼んで…三郎次先輩や久作先輩も来てて…だから、きり丸も一緒に花火しよう!」

 駄目?と不安げに瞳を揺らす奥に見える、駄目といわれても引きずってでも連れて行くというはっきりした意 思には躊躇いがない。しかたねぇなぁ、と苦笑すると、乱太郎の表情がぱっと明るくなった。
 早く行こう!と背中を押されながら、昨日団蔵に言った言葉を思い出していた。
こいつは昔から、優しそうに見えて言い出したら聞きはしないんだ。
本当に、恐ろしいくらい。



おわり
(2011/8/3)









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